一章第二節
苦しみには苦しみの原因となるものがあります。
この世のものは全て『縁・・・条件』によって生起し、縁によって滅んでゆきます。
私達のこの体は、遠い祖先から受け継がれ、そして食べ物によって維持されています。。
そして心は、色んな経験によって得られた知識で育っています。
だからこの身も心も「縁」によって成り立っていて、「縁」によって変化してゆくのです。
全てのものが「縁」によって生じ、「縁」によって変わってゆくという
のは、『不変の真理』なのですね。
苦しみも縁によって生じたものですから、縁によって無くする事ができるのです。
その為には、良き縁に触れる事。
良き縁に巡り会う事。
どうすれば良き縁に巡り会えるかと云うと、「自我」を離れ客観的な物の見方をして、常に正しい行いを心掛ける事です。
どうして人は苦しむのかと云うと、「執着」があるからだと説かれています。
富、名誉、悦楽、そして、自分自身への執着。
この執着から様々な苦しみが生じてくるのです。
「執着」を捨てなさい、とは説かれていません。
全ての執着を無くすると、人は生きてはゆけませんものね。
「執着を離れる」と説かれています。
そして更に「執着」を突き詰めてゆけば、「無明」と「貪愛」とが見いだせると云っています。
無明とは、移り変わる物の姿に眼が開けず、因果の道理に暗い事。
貪愛とは、得ることのできない物を貪って執着し愛する事。
《この世には三つの誤った見方があり、このような見方に従ってゆくと、この世界の事は全て否定されることになる。
一つには、この世で経験する全ての事は「運命」であると主張する。
二つには、この世で経験する全ての事は「神のみ業」であると主張する。
三つには、全て因も縁も無いと主張する。
これらの考え方では、「悪を離れ、善を成そう」と云う意志も努力も意味も全てなくなってしまう。
故にこれらの考え方は全て誤りであって、物事は皆縁によって生じ縁によって変化し、縁によって滅んでゆくのである。》
私は今までにも「仏教聖典」を幾度となく読んできましたが、こうして学びの部屋で書き込んでいますと、改めて「真理の言葉」だと実感します。
今の時代にも的確に通じるものがあり、そしてこの言葉は、人間に苦しみがある限り「不変」の物だと思います。
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