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** 仏教聖典エッセンス **


四諦八正道

先ず最初は仏教聖典から引用しながら学んでゆきたいと思います。

四諦八正道(したいはっしょうどう)
人は何故苦しむのか、と言う事を突き詰めてゆくと、「煩悩」が有るが故に苦しむのだとお釈迦様は教えています。
この煩悩は、全て執着心から起こるものであり、執着を離れない人生はすべて苦しみであって、これを苦しみの真理「苦諦(くたい)」と云います。

煩悩とは生まれつき備わっている激しい生への執着が原因となり、欲望が芽生え、その欲望によって様々な苦しみが生まれてくるのです。
この苦しみの原因を「集諦(じったい)」と云います。

この欲望の根本である執着を離れる事が出来れば、人間の苦しみもなくなると言います。これを苦しみを滅ぼす真理「滅諦(めったい)」と云います。

この苦しみを滅ぼす為には、「八正道(はっしょうどう)」と云う、八つの正しい道を修めなければなりません。
正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一。
これらの正しい道を行い、苦しみの原因である欲望を滅ぼす道を「道諦(どうたい)」と云います。

この八正道にある「正しい」と云う意味は、仏教で云う「中道(ちゅうどう)」の事を言っています。
中道とは、「バランスが取れた程よい道」と云う事で、「真ん中」を指すものではありません。
物事や、状況などにより「中道」を判断してゆくのです。
コタツの温度調節機能を思えば分かり易いかもしれません。
「高い温度」にもあまり温度が高くなれば温度を調節する機能があります。
中温にも、低温にもあります。
何事も「ゆきすぎない」という事ですね。

お釈迦様自身、最初の頃はバラモンの弟子となり苦行をなさいましたが、当時のバラモンの教えは「身は不浄」な物として、身体を痛めつける修行が行われていました。
これは身体が弱り、心まで弱ってしまいます。
これでは本来の目的である、「悟り」に達する前に身体が壊れ死んでしまいます。
そこでお釈迦様はこの苦行に見切りを付けられたのです。
快楽を求めすぎるのも、反対にこのような苦行で痛めつける事も、「中道」の道ではありません。

現代社会においても、「何事も程々に・・・」と云うのは通じますね。
腹八分目が丁度良いのかも知れません。



四諦八正道その二

四諦八正道の『四諦』とは、先に述べたように、「苦諦、集諦、滅諦、道諦」の四つを云います。
そして、『八正道』という「正しい道」を身に付けるように説かれています。


《 仏教聖典の一章一節の2
この四つの聖い真理が明らかになったとき、人は初めて欲から遠ざかり世間と争わず、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、欺かず、そしらず、へつらわず、ねたまず、瞋らず、人生の無常を忘れず、道にはずれることはない。》

このように『真理』の言葉を知る事で、苦しみ多いこの世界をも素晴らしい世界と感じるのですね。
それがお釈迦様が教えてくださっている『生きる智慧』だと思います。
苦しみは誰にでも付きものですが、その苦しみに対応する自分の心次第で、苦しみも自分自身の糧となるのです。

私自身、苦しみの真っ直中にいるときは「自分だけが苦しんでる」ような気がしていました。
他の誰を見ても、幸せそうに見えるのですね。
そう思うと益々辛くなってきます。
辛い苦しい思いからは、妬みや嫉みのマイナスの感情しか生まれてきません。
だから一層自分が嫌になってくる。
自暴自棄に陥った心には、もう救いの手だてはありません。
自分で気付くしかないのです。
自分自身の心は自分で救うしか、方法は無いのですね。
その導きとして、お釈迦様の教えは「海の灯台」の灯りのように、心の持ってゆく方向を教えてくださっているのだと思います。



  一章第二節


不思議なつながり

苦しみには苦しみの原因となるものがあります。
この世のものは全て『縁・・・条件』によって生起し、縁によって滅んでゆきます。
私達のこの体は、遠い祖先から受け継がれ、そして食べ物によって維持されています。。
そして心は、色んな経験によって得られた知識で育っています。
だからこの身も心も「縁」によって成り立っていて、「縁」によって変化してゆくのです。
全てのものが「縁」によって生じ、「縁」によって変わってゆくという
のは、『不変の真理』なのですね。

苦しみも縁によって生じたものですから、縁によって無くする事ができるのです。
その為には、良き縁に触れる事。
良き縁に巡り会う事。
どうすれば良き縁に巡り会えるかと云うと、「自我」を離れ客観的な物の見方をして、常に正しい行いを心掛ける事です。

どうして人は苦しむのかと云うと、「執着」があるからだと説かれています。
富、名誉、悦楽、そして、自分自身への執着。
この執着から様々な苦しみが生じてくるのです。
「執着」を捨てなさい、とは説かれていません。
全ての執着を無くすると、人は生きてはゆけませんものね。
「執着を離れる」と説かれています。
そして更に「執着」を突き詰めてゆけば、「無明」と「貪愛」とが見いだせると云っています。
無明とは、移り変わる物の姿に眼が開けず、因果の道理に暗い事。
貪愛とは、得ることのできない物を貪って執着し愛する事。

《この世には三つの誤った見方があり、このような見方に従ってゆくと、この世界の事は全て否定されることになる。
一つには、この世で経験する全ての事は「運命」であると主張する。
二つには、この世で経験する全ての事は「神のみ業」であると主張する。
三つには、全て因も縁も無いと主張する。
これらの考え方では、「悪を離れ、善を成そう」と云う意志も努力も意味も全てなくなってしまう。
故にこれらの考え方は全て誤りであって、物事は皆縁によって生じ縁によって変化し、縁によって滅んでゆくのである。》

私は今までにも「仏教聖典」を幾度となく読んできましたが、こうして学びの部屋で書き込んでいますと、改めて「真理の言葉」だと実感します。
今の時代にも的確に通じるものがあり、そしてこの言葉は、人間に苦しみがある限り「不変」の物だと思います。


  二章一節


「変わりゆくものに実体はない

前回のおさらいですが、「身も心も因縁によってできている」と云うことを思い出しましょう。
お釈迦様は「だから、この身には実体がない」と仰っています。
この身は因縁の集まりであるから、「無常」なものだとも仰っています。
「無常」とは、あらゆる存在が生滅変化して移り変わり、同じ状態には止まっていないことを云います。
そして私達の「心」も因縁の集まりであって、常に移り変わる無常の物なのです。
「自分を組み立てている身と心や、それを取り巻くものは『我』とか『我がもの』とか云う観念を離れたものである」
それなのに、「智慧」のない心が「我である」とか「我がものである」と執着しているだけなのですね。
この執着を離れてこそ、苦しみのない穏やかな生活を送ることができるのだと仰っています。
本文では「心身ともに執着を離れた時、悟りが得られる」となっています。
「悟り」とは、迷いが無くなって真理を得る事と国語辞典には載っています。

次に、この世においてどのような人も成し遂げられないものとして、五つ挙げられています。
一つ目は、老いく身でありながら、老いないと言うこと。
二つ目は、病む身でありながら、病気にならないと言うこと。
三つ目は、死すべき身でありながら、死なないと言う事。
四つ目は、滅ぶべきものでありながら、滅びないと言う事。
五つ目は、尽きるべきものでありながら、尽きないと言う事。
これらの事は、例外なく全てのものは避ける事ができません。
その真理を知らないから、いたずらに苦しみ悩むのです。
真理を知ったものは、このような愚かな悩みを抱く事はないと仰っています。
私のような凡人は、頭で解っていてもやはり悩み苦しみます。
また、悩み苦しむから人間は進歩があるとも言えますね。
然し、悩みの中でも「愚かな悩み」というものがあります。
自分自身の力ではどんなに努力をしてもどうにもならないことなのに、私達は悩む事があります。
仏教聖典の指す「愚かな悩み」とは、そういうものを言っているのだと思います。

次は四つの真理を学びます。



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四つの真実

前回はどのような人も成し遂げられないものでしたね。
今回は、この世には四つの真実があるというお話です。

第一の真実は、全ての生きとし生けるものは「無明」から生まれる。
第二の真実は、欲望の対象となる全てのものは「無常」であり、「苦しみ」であり、そして「移り変わりゆくもの」である。
第三の真実は、全ての存在するものも「無常」であり、「苦しみ」であり、又「移り変わる」ものである。
第四の真実は、我も我がものも無いと言う事。
この四つの真実は、仏がこの世に出現するとかしないとかに関わることなく、この世の道理なのです。

無明とは、「正しい智慧が無い」事です。
この智慧というのは、知恵ではありません。
「正邪を区別する正しい判断」のことを指します。
ただ単に「知識」ととらえるのではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見抜く事なのですね。
この智慧を完全に備えた者を「仏陀」と称します。



  第1章3節 

真実の姿

おはようございます。
今朝は少し曇り空ですね。
久し振りに仏教聖典を開きます。

今日は「あらゆるものの真実の姿」について学びます。

>この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともとちがいはない。ちがしいを見るのは、人びとの偏見である。<
空に「東とか西」の区別をつけるのも、「数に多いとか少ない」とか区別をつけるのも全て人間の「はからい」だとお釈迦様は仰っています。
生死においても、本来は「生も死も」ないものであるのに、人間が区別をつけているのですね。
事の善悪を判断するのも、人間のはからいによって「これは善だ」とか「これは悪だ」とか区別しているのです。
しかし、仏はこの世の全てのものを「まぼろし」であるとか、「空に浮かぶはかない雲」だと見て、心のはからいを離れています。
私たち凡人は「心のはからい」によって様々な苦しみや迷いを生んでいるのですね。
仏教聖典では、『人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。
有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね 苦しみと悩みとを招く。』
と書かれています。
だから正しい事でさえ、執着するのはお止めなさい。
まして間違った執着心なんて尚更捨てなさい、と教えて下さっています。
執着すると言うことは、「我が物」にしたいと言う「我」の心のはからいなのです。
全てこの世のものには「実体」が無いのですから、「我」というのもありません。
来る事もないし、去って行くことも無く、生ずる事も滅する事もありません。
全て心のはからいによって迷いが生じ、執着心が起こり、それによって苦しんだり悩んだりするのです。
>仏は、「すべてのものは有無の範疇[はんちゅう]を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずと いうのである。
ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。<
この世の真実の姿を、「幻のような空しいもの」と捉える事ができれば、執着から離れることができるのです。
執着心から解き放たれた時、人間の苦しみや悩みも消えてしまうのですね。
苦しい時、私はその苦しみを齎す根本である執着心を突き止め、その執着を離れようと心掛けるようにしています。
病を得ても、その病の原因や治療の方法が解っていれば、不安感も和らぎますね。
それと同じで苦しみの原因を知り、解消法を知っていれば心強いですね。

次回は常見と断見について学びます。



常見、断見。

無量の因縁によって現れたものが、永久に存在すると信じるのを『常見』と言い、全く無くなると信じるのを『断見』と言います。
この断、常、有、無は、ものそのものの姿ではなく、私達の心にある『執着』から見た姿なのです。
然し、実際は全てのものは、この『執着』から離れて存在しているものであり、縁によって起こったものなのですから、移り変わる『無常』と言うことです。
移り変わるから『幻』のようであり、陽炎のようでもありますが、
移り変わるままに、『真実の姿』なのです。

川は人には川と見えますが、水を火と見る餓鬼には川とは見えません。
餓鬼にとって川は『有る』とは言えず、人にとっては『無い』とは言えないのですね。
このように全てのものは『有る』とも言えず、又『無い』とも言えない幻のようなものなのです。
然しこの幻のような世界を離れ、真実の世も永遠不変の世も無いのですから、この世を『仮のもの』と見るのも『実の世』と見るのも誤りだと書かれています。

う〜〜ん、なにやらややこしくなって来ましたね(笑)
要するに、『この世の全てのものは有るとも無いとも言えない』と言う事で、「執着すべきものでは無い」という事なのでしょう。

執着には『必要な執着心』もあるように思います。
執着心を全て無くしたら生きられないですものね。
執着を離れて、八正道の生き方が出来れば「迷いや愛欲」などの苦しみから解放される事を教えてくださっています。



中道

かたよらない道とは、仏教で言う『中道』と言う事です。
『愚かな者は、あるいは有と見、又あるいは無と見る。然し正しい智慧の目で見るところでは、有と無を離れて見る。』
これが中道の正しい見方なのですね。

内にも外にも、有にも無にも、そして正邪や悟りにも拘らない。
川の流れの中流に身を任せるのが、道を修める人の『中道』の考え方なのです。
全ての善悪にもとらわれず、縛られてはならないと教えています。
とらわれない、と言うのは『握りしめない』『執着しない』と言う事なのです。
また、迷いというのが有るから『悟り』があるので、迷いが無くなれば『悟り』も無くなるのです。
悟りがあるのは尚道を修める為の妨げになるとも仰っています。
本当の悟りとは、『悟って悟りに止まらない』ものなのです。
この境地に達すれば、全ては迷いの儘に悟りであり、闇の儘に光なのですね。
要するに、煩悩がそのまま悟りであると言うところまで悟ってこそ、本当の悟りとなるのです。

段々難しくなってきましたが、皆さんは如何ですか?
次回は『空』と言う言葉が出てきます。
『色即是空、空即是色』と言う『空』ですね。



  第4節

かたよらない道の4

>ものが平等であって、差別のない事を『空』と云う。
ものそれ自体の本質は、実体がなく、生ずる事も、滅する事もなく、それは言葉では言い表す事が出来ないから『空』と云うのである。<

>有無、迷いと悟り、実と不実、正と邪といっても、実は相反した二つのものがあるのではなく、まことの姿は云うことも示す事も識る事もできない。
この言葉のはからいから離れたとき、真実の『空』を悟る事が出来る<

要するに『空』とは、全てのものが因縁によって相より、相起こり存在するのであるから、実体としての不変の自我がその中に存在するのではないというのです。
だから実体の有無にとらわれてはいけないと云うことなのですね。
又、この世のものは『無常』であると云うことにもとらわれてはいけないと仰っています。
そして『無常でない』ととらわれるのも誤りなのです。
これがお釈迦様の説かれる『中道』なのですね。
『空』の原語は『シューニャ』と云い、元々の意味は『膨れあがった』又は『空っぽの』と云う意味です。
これが転じて、『無い』とか『欠けた』とか云う意味で用いているのです。
仏教で『一切法皆空』と云いますが、これは全てのものの存在自体がないと云うのではなく、現に知覚しているものは因縁によって生起したものを感覚しているに過ぎないと云うことなのです。
この考えから仏教ではものに執着してはならないと教えているのですね。
『スッタニパータ』の第1119に、「常によく気をつけ、自我に執着する見解を打ち破って、世界を空と観察せよ」と書かれています。

ここで第二章は終わり、次は第三章清らかな心を学びます。



清らかなこころ

人には様々な種類があります。
心の曇りの少ないもの、又多いもの。
賢いもの、愚かなもの。
教えやすいもの、教えにくいもの・・・
その上に男女の違いもあります。
然し、どんなに違いがあっても、人としての本性に違いがあるわけではありません。
男性が悟りを得るように、女性にも悟りを得る事はできるのです。
お釈迦様がいらっしゃった時代や国の背景を考えると、この男女平等に近い思想は大変特異な思想であったと思います。
インドは身分による階級制度の厳しい国でした。
女性の地位も遙かに低く、女性が悟りを得る事は非常に困難だと考えられていたようです。
然しお釈迦様は「男でも女でも、人には皆悟るべき本質が備わっている」と説かれています。
そして、「全ての人間には清浄の本心があるが、外の因縁によって起こる迷いのチリに覆われている」というのです。
然し迷いの心はあくまでも『従』であって、心の『主』は清らかなままであると仰っているのです。
煩悩のチリに包まれながら、染まることも汚される事もない。
そういう清浄な心を皆持っているのですね。
これは仏教では「仏性」と言い表します。
仏性は備わっているのだから、煩悩による汚れやチリを払い落とせば、悟りは自ずと返ってくるというのです。
然し悟ったものは、妄想も迷いも悟りもなかったと気付くのだそうです。
この仏性は例え畜生に生まれ、餓鬼になって苦しみ地獄へ堕ちたとしても尽きる事はないのです。
汚い体にも、煩悩の底にも、仏性は光を包み覆われながらも、全てのものに備わっているのですね。

死によっても失われず、煩悩の中にあっても汚れず、しかも永遠に滅びる事のない仏性を見つける事は、仏と法によるしかないと云われます。



とらわれをはなれて

今日は代3章3節の「とらわれを離れて」と云う所を学びます。
前回「仏性」に関して学びましたが、「我」と同じではないかと思われるかもしれません。
しかし、お釈迦様はそうではないと仰っています。
「我の考え方は執着心によって考えられるけれども、悟った人にとって我は否定されなければいけない執着であり、仏性は開き現さなければならない宝である。」
「仏性は、実に最も優れた人間の特質である。」
性別、貧富、身分などの差別無く、『仏性』はどんな人でも開き現す事が出来ると仰っています。
お釈迦様の生きた時代や国柄などを考えると、このような教えを説く事自体、本当に勇気がいったと思います。
そして仏性を開き現す為には、『八正道』の道を歩まねばならないと説かれているのですね。
八正道に関しては、この掲示板の最初の方でお話しましたが、ここで更に詳しくお話しします。

仏教では修行の基本として、「戒、定、慧」の三っつを重要と考えます。
戒は身体的な修行であり、定は精神的修行。
そしてこれらの『戒と定』が両輪となって体得する事で、そこに『智慧』が生まれるのです。
智慧とは、物事をよく観察しよく思念出来る心の働きの事です。
例えば、鏡は全ての物の影を映し取りますが、それらの影にとらわれる事はありません。
そのように事実を有りの儘に観察し、物には実体が無い、要するに『空』であると認識した上で、尚かつ物事にとらわれない心を『智慧』と云います。
この智慧を以て慈悲の心が生まれ、一切の生き物が『無明』の綱に手足をとられ、身動き出来ずにいることを観察し、救済の手を差し伸べようとする。
このような人を「ブッダ」というのです。
だからブッダは、お釈迦様だけを指す言葉ではなく、悟りを開き智慧を身につけた人の事なのですね。
八正道の中の正しい言葉(正言)、正しい行い(正行)、正しい生活態度(正命)、正しい努力(精進)は、いずれも身に付け習慣づけなければなりません。
これが修行の第一歩なのです。
その後に正しい教えを記憶(正念)したり、心を静かにして注意する修行が成就するわけなのです。
このように正しい戒と定を修めた上で、始めて正しい思念と正しい観察が出来るわけです。
これが八正道の思想と云う事なのです。



  第4章

煩悩

第1節 心のけがれ
仏性を覆い包む煩悩には2種類あります。
ひとつは知性の煩悩で、もうひとつは感情の煩悩です。
これらはあらゆる煩悩の根本的な分類ですが、更にこの根本を求めれば、『無明』と『愛欲』のふたつにわけられます。
このふたつの煩悩こそ、全ての煩悩の源なのですね。

無明とは『無知』のことを言います。
ものの道理をわきまえない事です。
愛欲とは激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見る物聞く物全てを欲する欲望ですが、転じて死をも願う欲望ともなります。
これらの無明と愛欲から様々な煩悩が生まれてきます。

貪りといかりと愚かさを『この世の三つの火』に喩えて、お釈迦様は説かれています。
貪りとは、気に入ったものを見て正しくない考えを持ち、満足を得たい気持ちです。
いかりとは、正しくない考えを持ち満足を得られない気持ちです。
愚かさとは、その無知ゆえに成さねばならないことや成してはならないことを知らない事です。
この愚かさは不浄な心から生まれます。

「従って人々は、気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気にいらないものの姿を見ては慈くしみの心を養い、常に正しく考えてこの『三つの火』を消さねばならない」

愛欲は『煩悩の王』と仰っています。
様々な煩悩がこの愛欲から生まれます。
「飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みとを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。」

内(自分)へ向かう愛は、自己中心的な愛であって身を汚す想いなのですね。
外(周り)へ向かう愛は、慈くしみの心となり、この慈しみの心を養う事で、自分の心も救われると言う事なのです。




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4節 迷いの姿

四諦八正道

『この世の人々は人情が薄く、親しみ愛する事を知らない。
しかも、つまらない事を言い争い、激しい悪と苦しみの中にあって、ようやくその日をすごしている。』
『身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず全て皆金銭の事だけに悩み苦しむ。
無ければないで苦しみ、あればあるで苦しむ。
ひたすら欲の為に心を遣って安らかな時が無い。』

今回は人間の迷いの姿を知る事で、何が大切かを学びます。
ここにあげたお釈迦様の言葉は、2500年の昔の異文化も、現在の日本も根本的な部分(人間の煩悩)に何等変わるものはないと思います。

『この世には五つの悪がある』として、
?全て互いに憎み合い傷つけ合い、そしていがみ合っている。
?親子、兄妹、夫婦、親族など全てそれぞれの道が無く、守るところも無い。自分を中心にして欲の欲するままに、互いに欺きあって心に誠がない。
?誰も彼も皆よこしまな思いを抱き、淫らな思いに心を焦がし男女の道もなく、その為常に非道を重ねている。
?偽り、無駄口、悪口、二枚舌を使い互いに傷つけあって、自分だけが尊い偉い者だと考え、他人を傷つけても省みない。
?全てのものは怠り、善い行為をする事も知らず、恩も、義務も知らず、ただ欲の儘に動いて他人に迷惑を掛け、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。

このような有様がこの世の誠の姿であり、人々は無明によって自然の道理として苦しみの多い世の中に生きているのです。
だから人は道を求める事を勧めていらっしゃるのですね。
道と言うのが『八正道』と言う道なのです。



さとりへの道

ここからは、どのような考え方をすれば苦しみから離れる事ができるのかを学んでゆきます。

心を清める。
これまで煩悩について学んで参りましたが、この煩悩から逃れる為の五つの方法がある、と仰っています。

その一
ものの見方を正しくして、その原因と結果をよく見極める。
苦しみの元は煩悩から起こるのであるから、その煩悩が無くなれば苦しみのない境地が現れる事を正しく知る。

その二
欲を抑えしずめる事によって、煩悩を静める。
明らかな心によって、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つに起こる欲を抑え煩悩の根元を断ち切る。

その三
物を用いるに当たって、正しい考えを持って用いる。
着ものや食べ物を用いるのは、享楽の為と考えない。
着ものは、暑さ寒さを凌ぐ為のもの。
食べ物は修行するためのこの身を養うもの。
(一般人は、そこまで徹底しなくても、物を大切にし感謝を持って用いる心は大切ですね。)

その四
何事も堪え忍ぶ事である。
暑さ寒さ、飢え、渇きを耐え忍び、罵りや謗りを受けても耐え忍ぶ。
そのことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

その五
危険から遠ざかる。
賢い人が荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所や交わってはならない友人は遠ざける。


このような方法を実践する事で、煩悩の火は消え去るとお釈迦様は説かれています。
全てこのように実践するのは、私達凡人には難しい面もありますね。
然し、苦しみの原因とその対処法を心得ているだけでも、人生を送る上ではとても重要な事だと思います。
そう言う思いで、私はこうして掲示板へ「お釈迦様の言葉」を書き込んでいます。




五つの欲

世の中には五つの欲があります。
一つには、眼に見るもの、耳に聞くもの、鼻に嗅ぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感触、これらの五つのものを心地よく好ましく感じる事です。
この欲をひたすら満足させる事のみに、人は苦しみ、喘ぎ、罪を犯す者までいます。
人の心は、心の赴くままに向かいます。
貪りを思えば、貪りの心が起こり、ひたすら貪り続けて飽くことを知りません。
愚かな事を思えば、愚かな心が多くなってゆきます。
全て「心」から起こるものなのです。
このような「心」を、人は注意を怠ることなく見守らねばなりません。
自分の心が、今どういう方向へ向かっているのか、その行方を見守り、その行方を見失わないようにしなければいけません。

ひとつの例をご紹介します。
釈尊がコーサンビーの町に滞在していた時、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収して釈尊の悪口を広めさせたのです。
釈尊の弟子達は、その悪口の為に町へ托鉢に出ても一物も得られない日々が続き、謗りの言葉を聞くだけでした。
そんな時、弟子のアーナンダーが釈尊に言いました。
「世尊よ、このような町に滞在する事はありません。他にもっと良い町があると思います。」
お釈迦様はこう答えました。
「アーナンダーよ、次の町もこのようであったならどうするのか。」
「世尊よ、又他の町へ移ります。」
「アーナンダーよ、それではどこまで行ってもキリがない。私は謗りを受けた時はジッとそれに耐え、そして終わるのを待って他へ移るのが良いと思う。アーナンダーよ、仏は利益、害、中傷、ほまれ、たたえ、謗り、苦しみ、楽しみと言う、この世の八つの事によって動かされる事がない。こういった事は間もなく過ぎ去るであろう。」

楽しい事がいつまでも続かないように、苦しい事もいつまでも続きません。そのようなものに振り回されて、心を乱してはいけないとお釈迦様は教えて下さっています。
「人の噂も・・・」という諺がありますが、人の心はそれほどクルクル移り変わる、まったく頼りないものです。
ただ、「諸行無常=全てのものは移り変わる」と言う真理は移り変わる事はありません。



善い行い

道を求める者は、常に身、口、意の三つの行いを清める努力を怠ってはなりません。
身を清めるとは、生き物を殺さない(現代では無駄に命を奪わないと言う事かな?)盗みをせず、邪な愛欲の煩悩を起こさない。
口を清めるとは、悪口や偽り、二枚舌、無駄口などを言わない。
意を清めるとは、貪らず、瞋(いか)らず、邪な見方をしない事です。

心が汚れると、行いが汚れ、行いが汚れると、苦しみを避ける事ができません。
だから心を清め、行いを慎む事が大切なのですね。

人は環境が全て満足のいく状態であれば、親切で謙遜で静かである事ができます。
然し、環境が心に逆らってくるとどうでしょう?
それでも心穏やかにいられるでしょうか?
たとえどのような悪意のある言葉を投げかけられても、それは本人自身の問題だと思います。
あなたが苦しむ謂われは無いはずなんですね。
あなたの心は、そのような言葉を吐く気の毒な者に対して、慈悲の心でもって受け止められるように努めれば、相手の毒のある言葉に苦しめられる必要はありません。
毒を毒でもって対抗すれば、自分自身も毒にまみれてしまいます。
毒を慈悲と言う尊い気持ちで包み込んでしまえば、あなたも相手も毒から遠ざかります。
汚いもの、愚かなもの。
そのようなものに汚されてはならないのです。



実践の道

>先ず最初に、人はこの世の生と死の根本的な性質を心に留めなければならない。

しかし、これはこの宇宙が永遠なのか、無限なのか、あの世があるのか無いのかと言う事ではありません。
真理を知る事なのですね。
この世界は、それ自体実体を持っているものではない事。
心の計らいを無くす道を得なければならない事。
迷いは外にあるのではなく、自分自身の心が迷いを生じていると知る事。
心の欲をもととして、欲の火に焼かれて苦しみ悩み、無明をもととして、迷いの闇に包まれ愁い悲しむ。
この心と戦って行かねばならないと、お釈迦様は仰っています。
このように、強い心を持って戦う人は、嘲り誹られても拳や石で打ち据えられても、それらの為に瞋りの心を起こす事はないのです。

このような悟りを得る為に、三つの事がある。
戒律、心の統一(定)、智慧である。
戒とは、人として守らねばならない事を保ち、心身を統制して小さな罪にも恐れ、善い行いをして励み努める事です。
心の統一とは、欲を離れ不善を離れて、次第に心の安定に入る事です。
智慧とは、四つの真理を知る事です。

この三学は、開けば八正道となり、四念住(しねんじゅう)四正勤(ししょうごん)五力(ごりき)六波羅蜜とも説かれています。
八正道は以前に学びましたが、再度簡単に説明します。
先ず正しいものの見方とは、四つの真理(四諦)を明かにして、原因と結果の道理を信じ、謝った見方をしない事です。
正しい考え方とは、欲にふけらず、貪らず、瞋らず、害(そこ)なう心のない事です。
正しい言葉とは、偽りや無駄口、悪口、そして二枚舌を離れることです。
正しい行いとは、殺生と盗み、邪な愛欲を行わない事です。
正しい生活とは、人として恥ずべき生き方を避ける事です。
正しい努力とは、正しい事に向かって、怠ることなく努力をする事です。
正しい念(おも)いとは、正しく思慮深い心を持つ事です。
正しい心の統一とは、誤った目的を持たず、智慧を明らかにするために心を正しく静めて心の統一をする事です。

四念住(しねんじゅう)とは、
?我が身は汚れたもので、執着すべきではないと観て、
?どのような感じを受けても、それは全て苦しみのもとであると観る。
?我が心は常にとどまる事なく、絶えず移り変わるものと観る。
?全てのものは、みな原因と条件によって成り立っているから、一つとして永久にとどまるものは無いと観る。
これらの4つを四念住と言います。

四正勤とは、
1これから起ころうとする悪は、起こらない先に防ぐ。
2既に起こった悪は、断ち切る。
3これから起ころうとする善は、起こるようにし向ける。
4既に起こった善は、いよいよ大きくなるように育てる。

五力とは、
1信ずる事。
2努める事。
3思慮深い心を持つ事。
4心を統一する事。
5明らかな智慧を持つ事。
です。

六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱(にんにく)精進、禅定、智慧の六つの事です。
布施とは、惜しむ心を退ける事。
持戒とは、行いを正しくする事。
忍辱は、怒りやすい心を治める事。
精進は、怠りの心をなくす事。
禅定は散りやすい心を静める事。
智慧は愚かな暗い心を明らかにする事です。

>乞う者を見て与えるのは、施しではあるが、最上の施しとは言えない。<
施した後で、後悔したり、誇りがましく思うのも最上の施しとは言わない。
施して歓び、施した自分と、施した相手、そして施した物の三つを共に忘れるのが最上の施しであると説かれています。

正しい施しは、見返りを期待せずに清らかな慈悲の心から起こるものでなければいけないのですね。
私達は何かを期待して行動を起こす事が当然だと思っているもので、無意識のうちに見返りを願っています。
見返りが無いと、愚痴や瞋りの心が生じてきて、自分自身も苦しむのですね。
こういう言葉は、本来知っているべき言葉なのに、欲心により見えなくなってしまうのです。
人の心は、このように愚かな頼りないものなのです。
だから、より一層戒め、精進しなければならないのですね。
次回は無財の七施について学びます。




無財の七施

布施と言うのは、布施する者、布施するもの、布施を受ける者、これら三つのものがひとつになって行う行です。
そして、自分にできる布施で充分なのですね。
大金持ちがどんなに沢山の布施をしょうとも、貧しい人が心を込めて一
本の蝋燭を布施するには及びません。
それさえ無い者にも、布施をするものはあるのですね。
それが無財の七施です。

《無財の七施》
その一 眼施:優しいまなざしをかける
そのニ 和顔悦色施:微笑み、笑顔をかけ
その三 言辞施:優しい言葉をかける
その四 身施:労働奉仕をする(ボランティア)
その五 心施:感謝の心を投げかける(ありがとう)
その六 牀座施:譲る(席を譲る、道を譲る)
その七 房舎施:(一宿一飯の)くつろぎを与える


一〜六までの布施は、誰でも気軽にできるのではないでしょうか。
七の場合、今の不穏な世の中を考えれば、誰でもというのも考えものですが。。。
でも心だけはこういう気持ちを持っていたいですね。
私は今四国に住んでいるのですが、お遍路さんを時々見掛けます。
四国の人はお遍路さんを見掛けると、お接待と言って布施をします。
ある人に聞きましたが、お遍路として四国を回っている時に、見知らぬ老婦人が心やすく声を掛けて下さったそうです。
その方は、「私はもう自分で札所を回る程の元気はありません。だから、お遍路さんにこうしてお接待させて頂く事で、私は一緒に回っております。」と言って、ご自分が縫われた巾着袋に、10円玉を入れて下さったそうです。
こういう習慣がいつまでも残っているのは、とても心が和みますね。
私も何か作って、お遍路さんに会った時、恥ずかしがらずに声を掛けようと思います。



四無量心

四無量心とは、慈・悲・喜・捨の四つの心を言います。
慈は貪りの心を断ち、悲を修めると瞋りの心を断ち、喜は苦しみを断ち、捨は恩と恨みのいずれに対しても差別を見ないような心を持てるのです。
恨みは生きている限り、ずっと『うらむ』ことで、怨みとは、死んでもうらみ続けることです。

多くの人々の為に、幸福と楽しみを与える事は、大きな慈です。
多くの人々の為に、苦しみや悲しみをなくす事が大きな悲です。
多くの人々に歓喜の心をもって向かうのが、大きな喜です。
全てのものに対して、平等で分け隔てしない事が、大きな捨です。

この四つの四無量心の心を養って、貪・瞋・苦・愛憎などの悪心を除かなくてはならないのですが、悪心は岩に刻んだ文字のように消えにくいもので、善心は水に描いた文字のように、放っておいたらたちまちの内に消えてしまいます。
だから、修行には終わりと言うものが無いのですね。
生きている限り、人間は己の煩悩と戦い続けなければならないのです。

また、人間は過ちを犯します。
然し、過ちに気付いて懺悔の心が起これば、その罪は罪でなくなります。
でも懺悔の心が起こらないのであれば、罪は永久に罪として本人を咎め続けるのです。
正しい教えを聞いて、何度も何度もそれを心に想い、修め習うことによって『正しい教え』は身につきます。
思うこともなく、修めることもなければ、例え耳に聞いていても身につかないのですね。

この世の大きな力として、信・慚・愧・努力・智慧があります。
この中で最も大きな力となるのが、智慧なのです。
智慧の力を『主』として、あとの四つは智慧に結びつく『従』の力と考えます。

智慧を身につけると言うのは、学問を身につけるのではなく、苦だらけのこの世を安楽に生きる為の術を身に付ける事だと思っています。
例えば熱が出たとします。
原因や治療法が解っていれば、苦しみも軽減するものです。
でも、原因も治療法も解らなかったらどうでしょう?
苦しみの上に、更に不安が加わりますね。
風邪だと解れば、それにあった治療法を行い、ジッと耐えていればやがて回復します。
耐えれば後は回復することを知っているから、それほど不安感はありません。
人生においても、苦しみの原因が分かって対処法を心得ていれば、大概の苦はやがて時と共に解決してゆきます。
この道理を知って、身につけてゆく事が、我々苦界に生きる者には大切な事だと感じています。

仏教聖典は、沢山の比喩で教えを説かれています。
それは、様々な人々を対象として、お釈迦様が教えを説かれたからなのですね。
これは裕福で学業を修められる者や、王様や役人などの地位にある者だけを救うのではなく、卑しく貧しい身分の者達こそ救われなければいけないと考えておられた証だと思うのです。
身分差別や男尊女卑の考えが支配していた、当時の国柄とか時代背景を考えれば、本当に素晴らしい教えです。
時代は変わっても、今の時代にも通用する教えも沢山説かれています。
それは生きる為の基本の教えだからです。
どの時代になっても、人間には苦しみが全く無くなってしまう事はありません。
生老病死は勿論、怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五蘊盛苦と、この世がどんな発達してもどうにもならない苦しみがあります。
このような事を、考え、理論立て、合理的な解決法としてお釈迦様は教えを説かれて一生を送られました。



煩悩 その2

煩悩には、貪、瞋、癡の三つ毒があります。
この煩悩にまみれた智慧のない愚かな心を「無明」と言います。
無明とは、光も射さない暗闇の心の事なのです。
ここで言う「智慧」とは俗に言う知識ではなく、「人生を生きる智慧」、要するに、人生の航海でいう羅針盤なのですね。

私達凡夫は、自分が一番可愛い。
自分は正しい。
自分は。。。
そう思い込んで、何か間違いや嫌な事があれば他人が悪いと考える癖があるように思います。
これでは、自分にとって何も進歩がありませんね。
人間は愚かだから、間違いも犯すし失敗もします。
悩み苦しみ、狼狽えて我を無くしてしまうこともあるでしょう。
悟りには程遠く、かけ離れているのかもしれません。
然し、かけ離れているからこそ、少しでも悟りに近づく心がけが大切なのですね。
目標は悟る事でキが、私はその悟りに至る過程こそが大切ではないかと思っています。



慚愧

おのれに恥じず、他にも恥じないのは、世の中を破り、おのれに恥じ、他にも恥じるのは世の中を守る。
慚愧の心があればこそ、父母、師、目上の人を敬う心も起こり、兄弟姉妹の秩序も保たれる。
懺悔の心が起これば、もはや罪が罪でなくなるが、懺悔の心が無いならば、罪は永久に罪としてその人を咎める。

信と慚と愧と努力と智慧とは、この世の大きな力である。
このうち、智慧の力が主であって、他の四つはこれに結びつく従の力である。

ひとつの心も、乱せば醜い煩悩となり、おさめれば美しい悟りとなることを知る。

物事を考える時に、良い方向へ考えると心も穏やかになり、穏やかな心が周りに影響を与えて、事がスムーズに運びます。
然し、悪い方向へ考える癖が付いた人は、取り越し苦労をしたり、僻んで受け止めたりして自分の心を悩ませます。
この悩みは、自分の心が創り出しているに過ぎないのですが、それに気付かずに「自分はなんて運が無い人間だろう。。。」と又悩みます。

又、自分の全ては正しいと思い込んでいる人がいます。
議論を好む人に多いように思いますね。
自分が正しい=相手が間違っている。
そう言う図式が、心の中に出来上がってしまっているのですね。
だから相手が折れるまで、異常な程に口撃を続ける人がいます。
自分も正しい=相手も正しい。
と言う寛容な心であれば、自分も更に成長する事ができます。

全て、心の持ち方なのです。
その心が、どうにもならないって言われる方がいらっしゃいますね。
全くどうにもならないのではなく、心をコントロールする為の智慧を知らないからです。
車にガソリンを入れなければ動きません。
人の心も、智慧をしらなければ、いくら焦っても思うように動きません。
先ず、智慧を身につけなければならないと言う事ですね。



仏のことば

>わたしをののしった、わたしを笑った、わたしを打ったと思う者には、怨みは鎮まることがない。
怨みは怨みによって鎮まらない。怨みを忘れて、はじめて怨みは鎮まる。

>これは我が子、これはわが財宝と考えて、愚かな者は苦しむ。
おのれさえ、おのれのものでもないのに、どうして子と財宝がおのれのものであろうか。

>おのれに勝つのは、戦場で千万の敵に勝つよりもすぐれた勝利である。

>正しい教えを知らないで、百年生きるよりも、正しい教えを聞いて、1日生きる方がはるかにすぐれている。

>耐え忍ぶことは、なし難い修行の一つである。しかしよく忍ぶ者にだけ最後の勝利の花が飾られる。

>病のないのは第一の利、足を知るのは第一の富、信頼あるのは第一の親しみ、さとりは第一の楽しみである。

>過ぎ去った日の事は悔いず、まだ来ない未来にはあこがれず、取り越し苦労をせず、現在を大切に踏みしめてゆけば、身も心も健やかになる。

>ものみな移り変わり、現れてはまた滅びる。生滅にわずらわされなくなって、静けさ安らかさは生まれる。

明けましておめでとうございます。
本年も引き続き仏教聖典から引用しつつ、お釈迦様の教えを学んでゆこうと思っています。

此処に書き出したのは、仏教聖典の中の『仏のことば』のごく一部ですが、現在の社会を生きる上で十分に通用すると思いませんか?
何かに躓いたり、腹が立ってムシャクシャしたり・・・
そんな時に私は仏教聖典を開いて『あぁ・・・こんなふうに考えれば自分の気持ちが静まるんだなぁ。。。』って、いつも感じています。
人への怒りは、相手ではなく自分の心を波立たせて苦しめます。
自分の心に、自分が苦しめられているのですね。
私も年なのか、怒りの感情を持つととても疲れます。
それなのに、肝心の怒りの対象者はケロッとしているのですね。
だから怒り狂うなんて、本来これ程馬鹿々々しい事はないと思うのです。
怨みも同じですね。
人を怨むのは、自分も傷つく覚悟でないと怨めません。
「人を怨めば穴二つ」なんて言葉がありますよね。
全くその通りです。
怨みの心からは、プラスになるものなんて何も生まれて来ません。
相手よりも、自分自身が苦しみ傷つくだけなのです。
これも、考えれば馬鹿々々しい行為だと思いますよ。
私は、今年の目標として、『怒らない、怨まない』を実戦してみようと思っています。




家庭の幸せ

>災いが内からわく事を知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かである。
内を修めないで外を守ろうとするのは誤りである。

私達は、不幸や災いは身の外から降りかかって来ると思いがちですね。
「私が不幸なのは○○のせいだ!!」「○○がしっかりしていれば、こんな災いに遭わずに済んだのに。。。」なんて云って、人を責める事が多いように思います。
然し、仏教の教えでは正しい真理の六方に向かって尊敬を払い、賢明に徳を行う事によって災いを防ぐように説かれています。
この六方を守るには、先ず四つの行いの垢(殺生・盗み・邪な愛欲・偽り)を去り、四つの悪い心(貪り・怒り・愚かさ・恐れ)を止め、家や財産を傾ける六つの口(酒を飲んで不真面目になること・夜更かしして遊び回ること・音楽や芝居におぼれること・賭博にふけること・悪い友達に交わること・業務を怠ること)をふさがなければならないと云います。

これらの事に気をつけ、その上更に次の『まことの六方』を拝む事を教えています。


先ず東は親子の道南は師弟の道西は夫婦の道北は友人の道下は主従の道・そして上は教えを信じる者としての道なのです。

親子の道を守るというのは、子は父母に対して五つの事
(父母に仕え・家業の手伝いをし・家系を尊重し・遺産を守り・父母の死後は懇ろに供養する)を守る事です。

これに対して、親は子に
(悪を止め、善をすすめ・教育を施し・婚姻させ・よい時に家を相続させる)の五つの役目を果たさなければなりません。
互いにこの五つを守れば、家庭は平和で波風が立たないのです。

南の師弟の道とは、
弟子は師に対して座を立って迎え・よく仕え・素直に命を守り・供養を怠らず・謹んで教えを受けるのです。
これに対して師は弟子に、
自ら身を正しくして弟子を正し・自ら学び得たところを全て正しく授け・正しく説いて正しく教え・引き立てて弟子が名をあらわすようにし・何事についても守護を忘れないように努めなければなりません。

次ぎに夫婦の道とは、
夫は妻に対して尊敬と・礼節と・貞操をもって向かい・家政を任せ・時々は飾りを与える、
妻は夫に対して、家政を整え・使用人達を適切に使い・貞操を守り・夫の収入を浪費せず・家政をうまく行うように努めます。

北の友人の道は、
相手の足らない物を施し・優しい言葉で語り・利益をはかってやり・常に相手を思いやる。
また友人が悪い方へ流れ落ちないように守り・万一そのような場合にはその財産を守ってやり・心配の有るときは相談にのってやり・不幸の時は助けの手を伸ばし・必要な時にはその妻子を養う事もする。

下方の主従の道とは、
主人は使用人に対してその力に応じた仕事をさせ、良い給料を与える。
使用人が病気になった時は、親切に看病する・珍しい物は分かち与える・時々休養させる。

これに対して使用人は、
朝は主人よりも早く起き・夜は主人よりも遅く眠らなければならない。
何事も正直を守り・仕事にはよく熟練するように努め・主人の名誉を傷つけないように心掛ける。


教えを信じるものとしての道とは、
どんな家庭であっても仏の教えが入っていなければならない。

そしてこの教えを受ける人は師に対して、
身も口も意も共に情けに満ち・丁寧に師を迎え・その教えを聞いて守り・供養をしなければならず、
これに対して教えを説く師は、
よく教えを理解し・悪を遠ざけ・善をすすめ・道を説き・人をして平安の境地に入らせるようにしなければならない。
このようにして、家庭は中心となる教養を保って成長してゆくのである。

六方を拝むというのは、このように六方の方角を拝んで災いを避けようとするのではなく、人としての六方を守る事で、内側からわいて来る災いを自ら防ぎ止める事である。


2500年も昔の、カースト制と云う身分差別の厳しいインドの教えを、そのまま私達に当てはめる事は困難な場合もありますね。
例えば、「主人・使用人」の関係は、「雇い人・使用人」と云うような職場の関係に当てはめれば良いかもしれません。

このように、それぞれの立場で、それぞれが自分の役割を正しく果たす事で、人間関係はスムーズにゆき、自らを律する事で災いを内側から防ぐ事が大切だと説かれているのです。

今の日本、それぞれの立場の役割を果たせない人間が多いように思うのは私だけでしょうか・BR> 親が育児放棄や虐待をし、子は親を殺して財産を使い果たし、夫婦はお互いを裏切り、教師は生徒を性の対象として弄て遊んだり・・・
このような事件が毎日のように起きています。
人として踏まなければならない道と云うものを、私達ひとりひとりが改めて考えて観る時が来ているように思うのです。



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