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〜 仏陀の言葉 〜



**仏陀とバラモン**


仏陀がラージャガハ(王舎城)の郊外にある竹林精舎におられた時の事です。
ひとりのバラモンが、「はげしき悪語」をもって仏陀の所へ怒鳴り込んできました。
聞けば、同族の一人の若者が仏陀の教えに帰依し、その許において出家してしまったのが不快でならないと言うのです。
経本ではバラモンの名を「讒謗婆堕羅婆闍婆羅門」とのみ記していますが、意味は「怒鳴り込んできたバーラドヴァージャ姓のバラモン」と言う意味でありましょう。
よほど喚き散らしながら怒鳴り込んできたものと思われます。
仏陀はしばしの間それを聞き流しておられましたが、ふと顔を上げてそのバラモンに対してこう仰いました。

「バラモンよ、そなたの家にも、時には友達や親戚など、客が来訪するであろうか。」
「そうだとも、ゴータマ(瞿曇)よ、わが家にも、時には友達や親戚など、客の来訪があるよ。」
「ではバラモンよ、そんなときには色々とご馳走を出すこともあるであろうか。」
「そうだとも、ゴータマよ、そんな時にはむろんご馳走を出す事もあるよ。」
「だがバラモンよ、その時もし彼らがそのご馳走を頂戴しなかったならば、それはどういう事になるであろうか。」
「ゴータマよ、もしお客様が食べて下さらなかったら、それはまた自分のものになるより他はない。」
「バラモンよ、それと同じ事である。 今そなたは私の前に罵詈雑言を並べた。
だが、私はそれを頂戴しない。 だから、バラモンよ、それはまた自分のものになるより他はあるまい。
バラモンよ、もし誹謗するものを誹謗仕返し、罵詈するものを罵詈仕返えすならば、それは主と客が共に食い、共に歓を交わすというものである。
だがバラモンよ、私はそなたと共に食せず、共に歓を交わさない。
だから、バラモンよ、これはそなたのものである。バラモンよ、これはそなたのものである。」
「ゴータマよ、王や王臣たちは、いま尊者ゴータマを『沙門ゴータマは聖者にまします。』と言う。だが、それでも、ゴータマだって怒るだろうと思ったのに。」

怒り無く調御して正しく生き、正しき智慧ありて解脱したり
いとも静かなるかかる人にそも何処よりか怒りは起こらん

怒れるものに怒り返すは悪しきことと知らねばならぬ
怒れるものに怒り返さずして人は二つの勝利を得るのである

他の人の怒れるを知りて正念におのれを鎮めるものは
よくおのれに勝つとともにまた他の人にも勝のである

彼はおのれとまた他の人の双方をしずめる医師なのである
いまだ法を知らざるもののみはこれを愚かなる者とぞ思うなり」


かく言われて、そのバラモンは世尊に申し上げました。
「世尊よ、最勝である。 世尊よ素晴らしい。たとえば、倒れたるを起こすがごとく、覆われたるを著すがごとく、迷える者に道を教えるがごとく、暗闇の中に灯火をもたらして、眼あるものは見よと言うがごとく、かくのごとく世尊は、様々な方便をもって法を顕したもうた。
私はここに世尊と法と比丘衆とに帰依たてまつる。
世尊よ、願わくは世尊の御許において出家し、具足戒を得んことを。」
かくして、かのバラモンは仏陀の許において、出家し比丘の戒を受けた。




**歓びとは**


仏陀が、マガダ(魔掲陀)国のパンチャサーラ(五葦)と云う村に居たときの事です。
ある日、仏陀はいつものように鉢を携えて托鉢に出掛けました。
でも、どうした事か、その日は誰も仏陀の鉢に食べ物を供養してくれる者はいませんでした。
この日は丁度、男女の若者達が互いに贈り物を取り交わす祭りの日で、みんな贈り物の交換に夢中になっていて、仏陀に食べ物を供養する事を忘れていたのです。
これは、ヨーロッパなどで見られるヴァレンタインデーに相当する習慣が、当時のインド社会にもあったのだとと思います。

困った仏陀は、誰も食べ物を施してくれないままに「綺麗な鉢をそのままに持って帰る」事になりました。
帰り道、仏陀に悪魔がささやきます。
「沙門よ、食べ物は得ることはできたか」
「悪魔よ、得る事はできなかった」
「では、もう一度村に引き返してみるがよい。
今度はどっさり供養の食を得る事ができるだろう」


悪魔がささやく。。。って、そんなの無いよ!!
そう云われそうですね。
でも、私達にも心の中に棲む悪魔が誘惑してくる時はありますよね。
ダイエットしてるのに、手みやげに頂いたケーキ、食べたらいけないと思いつつ、「少しだけなら良いじゃん!!ダイエットは明日から真剣にすれば良いじゃん!!」って・・・(笑)
結局食べた後、後悔するんですがねぇ。。。

経典はこういう心理描写をしている部分が多いのですね。
例えば、梵天勧請と云って、悟りを開いた仏陀が布教活動すべきかどうか迷って居るとき、梵天が空から舞い降りて来て仏陀に布教することを請うのですが、これは仏陀の心の中の神との対話なのでしょう。

さて、お話に戻ります。
悪魔は、今から村へ引き返せば贈り物の交換も終わり、きっと村人は仏陀の事を思い出して鉢に沢山供養をしてくれるだろう、と仏陀を誘惑します。
仏陀と云えども、やはり人間ですからお腹が空きます。
しかし、托鉢には托鉢の作法があり、ただ食べ物を得られれば良いと云うものではありません。
それは誰よりも、仏陀自身がよく承知しています。
仏陀は毅然としてこう云いました。

「されど、得るところなくとも、見よ、我らは楽しくも住む
たとえば、かの光音天のごとく我は歓びを食して生きん」


光音天と云うのは、アーッバサラー・デーヴァーの訳語で、元バラモン教において説かれる一群の神々の事で、その神は歓びを食として生き、語ればその口から清き光を放つと云われている神様です。
その神を喩えて、仏陀自身も歓びを食して生きなければならないと仏陀は語ります。

托鉢とは、家々の戸口に立って食べ物の余食を請う事ですが、ただ食べ物を得る為だけの手段であれば、これ程卑しい哀れな行為はないでしょう。
仏陀はある時、出家して間もない比丘(男性の出家者)達にこう云いました。

「比丘たちよ、汝等出家したる者は、髪を剃り、鉢を持して家々に乞食して生を支える。
乞食とは、世の諸々の活命(かつみょう=生き方)の中の下端である。
だが比丘たちよ、諸々の秀抜なる人々が、かくのごとき生活に就く所以のものは、義(ただ)しき、目的の存するによりてである」
相応部経典22・80

ただしき目的と訳した言葉は、漢訳では「義趣」であって、又同時に「勝義」と云う表現を持って語られています。
勝義とは、人間が願う最上のもの。
所謂最高善の事なのですね。
優れた人々が、敢えてこの哀れな托鉢という「活命」の中の下端に就くのは、全てを放棄して、ただひたすらに最高善を追求するためだと云います。

それだからこそ、仏陀は1日の空腹に耐えかねて最高善の追求を台無しにする事ほど、愚かなものは無いと云うのですね。
今日1日の空腹を耐え忍んで、仏陀はそれでも尚最高善の追求を続ける事の歓びに満ち溢れ、毅然として彼は家路を帰ってゆきました。


**老いても尚**


ラージャガハ(王舎城)から北方を目指して、仏陀は最後の旅を続けています。
年齢も80歳に達し、大般涅槃経には仏陀の言葉として次のような哀しい言葉が書かれています。

「アーナンダ(阿難)よ、私は老い衰えた。老齢もすでに80に及んだ。
例えばアーナンダよ、古い車は革紐の助けによって、やっと動くことができるが、思うに私の身躯もまた、革紐の助けによって、やっと動いているようなものだ。」


それでも尚、仏陀は老いた身体でもって伝道の旅を続けているのです。
至る所で教えを請う人々の為に正法を説き、やがてある国境の渡し場まで来た時の事です。
此処から先は、見送りに来た人達は進む事ができません。
仏陀は多くの見送りの人々に向かい別れを告げようと立ち止まりました。
その人々の中に、ラージャガハやナーランダからはるばる此処まで附いて来た人達の顔もありました。
その中の一人で、ヴァッサカーラ(雨勢)と云う大臣が、感極まったような面持ちでこう云いました。
「大徳(仏陀)よ、今世尊がお出でになられました門を、今日より以後は「ゴータマの門」と命名致したいと思います。
また大徳よ、これから世尊が渡られるであろうこのガンガー(恒河)の渡し場を、今日より以後は「ゴータマの渡し」と名付けたいと思います。」

まるでポンコツ車のような老いさらばえた仏陀、彼にはひとかけらの権勢も、一握りの財宝も持ち合わせていません。
然しこの大臣は溢れるような感激と尊敬の眼差しで仏陀に向かってこう云いました。
もう二度とこの師に逢うことはないだろう。
誰もがそう思い、最後の別れと感じていました。
この大臣の提言は、仏陀その人に対する純粋且つ最大級の尊敬の現れであったのでしょう。



**沙羅双樹の下で**


仏陀がヴェーサリー(毘舎離)の北方にある、ミティラー(弥薩羅)と云う町に居たときの事です。
仏陀がふと微笑されたのを見て、アーナンダ(阿難)がそのわけを尋ねました。
すると仏陀は「今こんな物語を思い出していたのだよ。」と云って、こんな話をされました。

中阿含経67(大天捺林経)
その昔、このミティラーの都に、マハデーヴァ(大天)と云う王がおりました。
正しい政治を行って民共からはとても信望の厚い王様でした。
かねてからこの王は、王宮の理髪師にこのような事を命じていました。
「わが頭に白髪の生ずるのを見付けたならば、すぐに私に告げるように。」と。
ある日のこと、理髪師はついに王の頭に一本の白髪を見付け、早速王に申しあげると、「ではその白髪を毛抜きで抜いて私の手のひらにおくように」と、王は命じました。
理髪師が云われた通り、抜いた白髪を王の手のひらに置くと、王は手のひらの上の1本の白髪を押し頂いて次のような偈を説いて云いました。

  我 頭 生 白 髪
  寿 命 転 衰 減
  天 使 己 来 至
  我 今 学 道 時

意訳・・・「我が頭すでに白髪生ず寿命たた衰えたり
すでに白髪の来たり生ぜば今や我が学道の時なり」

そして王はやがて太子に位を譲り、仏道の修行に専念するようになった、と云うのが仏陀が思わず微笑されたお話の内容です。

このようなお話をされるからには、仏陀もきっと年老いておられた頃の事でしょうね。
アーナンダが持者として仏陀のお側にいつも控えていたのは、仏陀晩年の20年余りの間の事であったそうですから、そう考えても良いと思います。
仏陀自身、年老いてきた事はっきり自覚し、晩年の生き方について何か考えるところがあったのかも知れませんね。

仏陀がこのお話をされたのは、決して年老いた王が太子に位を譲ったところに惹かれたからではありません。
自分の頭に「白髪が生じた」事を知り、「今や我が学道の時なり」と、白髪が生じたのを天使の知らせと受け止め、いよいよ学道に専念しょうと思ったところにふと惹かれ、思わず微笑してしまったのでしょう。

仏教者には、所謂隠棲はありません。
静かに余生を送るなんて事はあり得ないのです。
その何よりの範例は、仏陀の障害そのものなのですね。
先に述べたように、「私は革紐の助けによって、かろうじて動けるポンコツ車のようだ」と仰っていますが、それでも尚、起きあがって最後の説法の旅を続けておられるのです。

やがて仏陀は、クシナーラーの郊外にあるサーラ(沙羅)の並木の下で、こう仰いました。
「アーナンダよ、私は疲れた。横になりたい。この沙羅双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いて貰いたい。」
云われた通り、アーナンダは床をしつらえると、仏陀は「右脇を下に、足の上に足を重ね、法の如く伏したもうた。」のです。
樹下に横たわっていても、仏陀の説法は続きました。
「この仏陀が生涯かけて説きたもうたところの総括と云うにふさわしい」最後の説法は、こうして沙羅双樹の下で横たわりつつ説かれました。
故に、この時の仏陀のお姿は、仏教者にとっては脳裏に刻みついて忘れることなどできない、最後のお姿になるのです。



**花を讃える**


ダンマパダ(法句経)の第4章に、華品(けぼん)と呼ばれる経があります。
その中に16の偈文が収録されています。
この偈文は、全て華を歌える偈(韻文)で、幾つかご紹介致します。

「花の香りは風にさからいて薫せず
栴檀(せんだん)・多掲羅(たから)・末利迦(まつりか)の香りもまた然り
されど、よき人の香りは風にさからいて薫ず
ただしき人の香りは四方に香る」


「花に集まる蜜蜂を見よ
花の色と香りを損なうことなく
ただその甘味をのみ採る
比丘もまたかく村々に行乞するがよい」

阿含経の諸経には、しばしば仏陀が蜜蜂の喩えをもって教えを説かれています。
この偈文は、行乞に向かう比丘達への教訓として説かれた偈ではないでしょうか。
行乞と云うのは、家々の戸口を訪れて食物や衣服などを供養して貰う「行」の事を云います。
仏陀始め、出家修行者は托鉢によってその生を保っていました。
然し、ただ食べ物や衣服を得る為だけではなく、托鉢も大切な修行なのですね。
如何に托鉢を行ずるべきか、それは又、如何に生きるべきかと云う事にもつながります。
それを具体的に学べる機会、それが托鉢行なのです。

「愛すべく色うるわしくとも
かぐわしき香りなき花のごとく
語れども行うことなき者の言葉は
よく語らるるともなんの甲斐なし


愛すべく色うるわしくて
かぐわしき香りある花のごとく
語りてこれを行う者の言葉は
まことによく語られし言葉なり」

この偈は、花を喩えて「よき言葉を語るとともに、よき行いを行ずる人の素晴らしさを讃えているのです。
口だけ偉そうな事を云っても、行いが伴わない人間は多いものです。
香りがあって、見目麗しい花のごとく、人もそのようであれ、と教えておられるのですね。



**西土の人 **


相応部経典巻四には、「西土の人」と云う経典があります。
内容はナーランダ城で釈尊が説法された時のものでありますから、西土の人と云うのはコーサラ国の
シュラーヴァスティー(舎衛城)付近に居処を持つバラモン達を指しているものと思われます。
或いは、イランあたりから来た拝火教徒達を指しているのかもしれませんね。
この経典は、村長と釈尊の問答を記しています。
釈尊が質問し、村長が答えるという形です。

村長「世尊よ、西土から来たバラモン達は水瓶を携え百合の花輪をつけ、沐浴して身を浄め、火を礼拝します。
そのようにして彼らは死人の名を呼んで呼び起こし、生天(しょうてん)させようとしています。世尊も、世間の人々が死んだ時このように生天させてどこか良い処へ導かれるような事をなさるのでしょうか。」

釈尊「村長よ、今それについてこちらから質問するから、これに思った通りに答えなさい。宜しいか。
今、此処に次のような人がいるとしょう。
彼は殺人者で、盗人で、快楽に耽溺するもので、嘘をつき、卑猥な言葉を使い、意地悪でどうしょうもない乱暴者であったとしょう。
今この人の死後、生天できますようにと云って、大勢の人がその人の為に祈願し、礼賛し、合掌したとして、
さてこの人は死後天界に生まれることができるであろうか。」

村長「そんな事は考えられません。」

釈尊「例えば大きな岩を深い湖に沈めて、これを大勢の人が集まり、岩よ浮上せよ、と云って合掌して祈願しながらその湖の周りを歩いたとしたら、その祈願によって岩が浮上するだろうか。」

村長「そんなことはありません。」

釈尊はこのように、邪な考え方や生き方をしている人を、大勢の人々の祈願によって死後天界に生まれさせることは出来ない。
返ってその人は悪行の報いによって、苦界・地獄に生まれることになろう、と教えられています。
逆に、常に五戒を守り、常に正しい考えを持ち、慎みある行いをする人が居て、これを死後、苦界・地獄に堕落させようと
大勢で祈願してみたところで、その人はそれとは無関係に、道理に従ってやはり天界に生まれることになるだろう、と仰っています。
「道理に従って。。。」と云うところが、凄く印象に残りますね。

私達は良いことをするときには誰かに知って貰いたい、と想うし、悪い事だと知って、あやまちを犯すときは、人に知られないように隠そうとします。
でも、そんなことは「道理」の上では全く無関係な、愚かな考えなのですね。
善は必ず善の結果を呼び、悪は必ず悪の結果に結びつくと云うのです。
交通安全のお札や、家内安全、学力向上。入試の合格祈願等々、普段馴染みが無くてもついつい買ってしまう御札や御神籤。
買ったから試験に合格するのであれば、普段の努力は無駄と云う事になってしまいます。
それを承知で、やはり神頼みをしなければならないような気持ちになってしまう。
そんな私達の心の迷いを、釈尊は戒めておられるのですね。
普段から、正しい行い、正しい努力などの八正道を修していれば、そのような迷いに落ちる事はないと云う事なのです。



**羅陀(ラーダ)相応**


阿含経の中に、仏陀が弟子の一人である羅陀の質問に答えている経があります。
その中の一つをご紹介致します。

先ず羅陀が仏陀にこう質問します。
「大徳よ、〈悪魔、悪魔〉と申されますが、一体いかなるかを悪魔と申されるのでありましょうか。」
仏陀は喩え話を用いて説法をされるのですが、その中でよく〈悪魔〉と云う言葉をお使いになるようです。
それに対する、羅陀の率直な疑問なのでしょう。
仏陀のお答えはこうです。
「羅陀よ、もし色〈しき=仏教で云う形あるものの意〉あらば、悪魔あり、殺者あり、死者あり。
羅陀よ、その故に、ここに色は悪魔なりと観じ、殺者なりと観じ、死者なりと観じあるいは病なり、癰(よう)なり、刺す(し)なり、痛なり、痛みの生ずるところなりと観ずるが良い。

そのように観ずれば、それが正しい観察というものである。
羅陀よ、又受(じゅ=感覚)あらば・・・・・想(そう=表象)あらば・・・・・行(ぎょう=意志)あらば・・・・・識(しき=意識)あらば・・・・・」

と続きます。
此処にあげられた、色、受、想、行、識は
、仏陀が云うには人間の身体は五つの要素から成り立っていると云うのです。
それを『五蘊(ごうん)』と云いますが、要するに仏陀は羅陀の質問に対して、「汝の肉体と心の営みの中に生ずるものである。」
と仰っているのですね。

人間の肉体と、心の中に生ずる悪しき営みこそ、汝の殺しやであり、汝を台無しにするのだと云うのです。
私達は「悪魔」というと、外界からやって来るように思いがちですが、それが全く否定されたお答えなのです。
だから、よくよく自分を戒め、精進し続けなければならないのですね。




**商品**


増支部経典巻一という経典があります。
これには、適度のバランスの重要性をある商人を例に説かれているものです。

ある店先の事です。
商人は秤を使うに際し、これだけ載せると上に傾き、これだけ減らせば下に傾く事を知っています。
そのように、良家の人は財の収入と支出を知ってバランスの取れた生活をし、奢侈にもならず、あまり窮乏するわけでもありません。
もし収入が少ないのに奢侈な生活を送れば、「三千年に一度しか得られないウドンバラ果を食べるように
財を喰っていると評判になろう。
収入が多いのに貧弱な生活をすれば、
飢え死にするような状態で死ぬだろう、と評判になろう。」

このように、一方に偏らない生活を送る事が大切なのですね。
それと共に、「虚栄を虚飾」をも戒めておられる言葉です。

「中」の生き方は、八正道の生き方と云う事なのですが、八正道を改めて見てみると、
そこには「○○をしてはならない・・・」と云うような説き方はされていません。
つまり人間本来の欲を、真っ向から否定する考え方のようなものは見られないのです。
大切なのは、「あれが良い、これがいけない・・・」などと一方的に否定したり肯定したりする
「固執した考え方や生き方」を戒めておられるのです。
そういう思想が、本来のお釈迦様が考えて伝道された教えなのです。



**男女平等を説く**


増支部経典巻三の「カッティヤ経」には、
「女の求めるところは男である
女心が向くところはアクセサリーと化粧品である
女のより所は我が子である
女が執着するのは夫の独占である
女が最後に目指すのは支配権を握ることである」

と釈尊が述べたとして、書かれています。

他にもアーナンダとの間で女性に関する問答が交わされたとする経典には、
アーナンダ「お尋ねしたいことがあります。
女性は何故公の会合に参加できないのでしょうか。また、男性とおなじように一定の職業に就くことができないのでしょうか。
そして、職について報酬を貰うことがないので、女一人では生計を立てる事が何故できないのでしょうか。」
当時の女性が如何に虐げられていたか、この問いを見ても察っする事ができますね。
インドはカースト制が厳しく守られており、その中でも又女性は蔑視されていたようです。

お釈迦様のお答えとして、このように書かれています。
「アーナンダよ、何故かと云うと、女性は怒りっぽい。そして嫉妬深いのだよ。
その上物惜しみして、愚痴るからだよ。こんな性質があるから無理なんだ。」

う〜〜〜ん、女性としてこの言葉は許せないですね。
でも、これはお釈迦様の真実の言葉では無いと筆者(田上太秀氏)は仰っています。
>これで見ると釈尊は女性を性格的に悪い者として考えているようだが、実際こんな事をアーナンダに
云ったわけではないと思われる。
これらの文献は釈尊滅後、100年以上も経って成立したものであるから、作り話しと考えられる。仏陀の云いたかったこと・・・原文<

バラモン教が信仰されていた農村の家庭では、家父長的家族制度が確立しておりました。
それに伴い、女性を蔑視する傾向があったようです。
この制度や観念に対して、釈尊は人間平等の立場をもって反対し、男女平等の思想を樹立しょうとなさってたようです。
私達は、通常両親を著す時「父母」と父を先に言い表しますが、これはバラモン教的な表現であると、筆者は云っています。
仏教では「母父」と、母の語を先に言い表しています。

>インド原語の仏教文献を見る限りでは、仏教徒はこの語順を遵守している。・・・原文<
これは父母を別記するときも、順番は「慈母」「厳父」と列記されています。
大乗仏教の経典の中に、「正法念処経(しょうほうねんじょきょう)」と云う経があり、
その中には世間には四種の恩があると説かれています。
「母・父・如来・説法師と列記されている中でも、やはり「母」が最初に書かれております。
このように、仏教では「母」を尊ぶべき最大のものとして考えられているのですね。
では、何故それが逆転してしまったのでしょう。

田上氏は『中国に来た時点で、「母・父」が「父・母」と翻訳されてしまった』と仰っています。
中国は古来儒教の国で、家父長的制度が一般化されてしまっていました。
その為、中国の翻訳僧はバラモン教的な表現に立ち返って翻訳したものと思われます。
日本はこの中国の「バラモン教的表現」の経典をそのまま輸入したので、インド仏教本来の家族論理が伝わらず、
釈尊の思想とかけ離れた、バラモン教的、又は儒教的家族論理が輸入されたのです。

仏教は元々、母を家庭における優れた「友」として、なくてはならない存在と考えていました。
確かに父の存在が中心である事には変わりないのですが、仏教ではそれ以上に「母」の存在を重視しているのです。
原始経典の中で、ある神の問いに釈尊はこう答えています。
神「誰が旅人の友ですか。誰が家庭の友ですか。
事故があったとき、何が友となるのでしょうか。
何が来世の友でしょうか。」

釈尊「キャラバンの主が旅人の友となります。母が家庭の友となります。
朋友が事故の時の友となります。そして自らつくった道徳が来世の友となります。」

釈尊の家庭論理思想のなかでは、女性を蔑視するどころか、このように母の存在はかなり大きく取り扱われているのです。
と云っても、「変成男子」の考えも、仏教には存在します。
女性は、そのままでは悟りに程遠い存在であり、一度男性に生まれ変わらなければ悟れない、とする考え方ですが、
これは女性と云う者自体が云々ではなく、女性は羞恥心のために衣を着る。
本来、衣を脱ぎ魂を出来るだけ解放して修行をする事が良いと考えられたので、魂を肉体で縛り、
その上に衣で縛り付けている女性・・・と云う観念での思想であると思われます。

大乗仏教の法華経には「女人五障罪」といって、女性が悟りを得るには五つの障害があると説かれています。
然し、田上氏は『このような考えは原始仏教にはなかった。」と云います。
>このように仏教は、男女の差別を無くす方向に向いてはいたが、それでも女性と男性の差は意識されていた。
・・・原文<



**キサーゴータミー (けしの種の話) **


昔、サーバッティという町にキサーゴータミーという若い母親がいました。
ある日のこと、最愛の幼いひとり息子が急病であっけなく死んでしまいました。
家族は泣く泣く葬儀の用意をし始めようとした時、母親のキサーゴータミーは冷たくなった息子の亡骸を抱いていいました。
「この子はまだ死んでいません。元気になる薬を探してきます。だから葬儀を行うのは少し待って下さい。」
そう言うと、キサーゴータミーは子どもの亡骸を抱いてかけだしていきました。

キサーゴータミーは町を薬を求めて彷徨いました。
そして、教えて貰った町はずれの物知りのおばあさんの家にかけこみました。
「私の可愛い子どもが死にかけています。おばあさん、どうか良い薬を教えてください、お願いします。」
一日彷徨い続けて疲れ果てたは母親の胸には、冷たくなった子どもがシッカリと抱きしめられていました。
その亡骸を見ておばあさんはいいました。
「かわいそうだけど、この子はもう死んでいるよ。死んだ子が生き返る薬があったらどんなにいいだろう・・・。
昔、わたしも子どもを亡くしたから・・・」
お婆さんの呟きも聞くことなく、キサーゴータミーは又町へと駆け出してゆきました。
次にキサーゴータミーが向かったのは、少し遠くの評判の良い名医の家でした。
「先生、お願いです。私の最愛の子供が死にかけています。どうか子どもを助けてください。」
見れば冷たくなった幼い亡骸を暖めるようにしっかりと胸に抱いた母親が、必至に助けを求めています。
医者はその母親に、いかにも残念そうに言いました。
「奥さん、死んだ者を生き返らせる事は誰にもできません。」
「そんなことをおっしゃらず、お願いですから私の愛する可愛い子供を助けてください。お願いします・・・お願いです・・・」
そう言って泣きくずれるキサーゴータミーの肩を優しく撫でながら、医者は慰めるように言いました。
「あなたに必要な薬ならわかります。今、ジェータの林にいらっしゃるお釈迦様にお聞きなさい。」
医者が言った「薬」という言葉だけをたのみに、キサーゴータミーは残る力を振り絞ってお釈迦様がいらっしゃるというジェータの林へ向かいました。

息を切らせ、疲れ果てた若い女性が、冷たくなった我が子を抱きしめてやってくる姿を見たお釈迦様は、その母親の傍へ近づいてゆきました。
「お釈迦様、私の愛する可愛い子供が死にかけています。どうかこの子の薬を下さい、お願いします。」
お釈迦様は暫く優しい眼差しで若い母親を見つめられていましたが、、やがてこう仰いました。
「わかりました。それではどこかでけしの種をもらってきなさい。ただし一度も葬式を出したことのない家のけしの種でなければなりませんよ。」
お釈迦様の言葉を聞いて、若い母親の青白い頬が生気がほんのりと赤みをさしてきました。
「私の可愛い坊や・・・もうすぐお薬をあげますからね。」
キサーゴータミーはそう言って息子を抱きかかえたまま、ふたたび町へ向かいました。
暫く行くと大きな集落が見えてきました。
それを見ると、キサーゴータミーの足は更に速くなりました。
ある一件の家の戸を叩き、「すみませんが、この子の薬にするためのけしの種を少し頂けませんか?」
それを聞いた家の主婦は、すぐに奥の方から快くけしの種を持ってきました。
その時、キサーゴータミーはお釈迦様の言葉を思い出して主婦に尋ねました。
「お宅はお葬式を出したことがありますか?」
思いがけない質問に、主婦は怪訝な顔をしてキサーゴータミーに答えました。
「はい。去年、私の主人を亡くしましたし、その前の年には両親が亡くなり葬式を出しました・・・。でも、それが一体・・・何故ですか?」
キサーゴータミーはお釈迦様に言われた事をこの主婦に話しました。
その話を聞いて主婦は目頭を抑えながら「そう言うわけだったのですか。でもけしの種ならどこの家にもあるでしょうが、お葬式を出したことのない家はねぇ・・・。本当に見つかるといいですね。」

キサーゴータミーは厚く礼を述べて次の家を訪ねて行きました。
次ぎに訪ねた家は大勢の子供がいました。
その家の主婦は、自分の妹が死んでその子どもたちを引き取ったところだと言いました。その次の家の若い女性は、やっと赤ちゃんが授かって産まれたら、その子はお腹の中で死んでいたとキサーゴータミーに話しました。
更に次の家ではお爺さんが笑いながらこう言いました。
「わしは今、婆さんと二人暮らしだ。息子は二人あるがな。
わしの親と婆さんの親、それの父親の両親と母親の両親、婆さんの方も同じこと、さてさて、これで何人死んだかのぅ・・・ひい、ふう、みい・・・、それにわしらももうすぐだわい。アッハッハ!」

キサーゴータミーは一人ひとりの話を聞いているうちに、これまで感じていた胸の苦しみが少しずつ薄らいでゆくのを感じました。
「どこの家にもけしの種はあるけれど、お釈迦様が仰るように『葬式を出した事のない家』なんて何処にもない・・・誰もが死んで逝かねばならないんだ・・・
お釈迦様は私にその事を教えて下さる為に、あのような事を仰ったんだ・・・。」
そう悟ったキサーゴータミーの胸には、もう突きさすような悲しみは消えていました。

その後彼女はお釈迦様の弟子になり、立派な尼僧になりました。







**参考書籍 田上太秀
 「仏陀のいいたかったこと」講談社学術文庫**



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