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盲亀浮木(もうきふぼく)の喩え

寿命百千歳になる一匹の盲亀があった。
この盲亀は大海から大海へと流れ浮いている浮木を求めていた。
この浮木は一枚の小さな木の板で、そこにはちょうど亀の頭が入る程度の小さな穴があいていた。
風に吹かれ波に揺られた浮木はひとつところに定着しないで、いつも洋上をゆらゆら流れ浮いていた。

そこへ一匹の亀が百年に一度東からやってきて、たった一度だけ頭をもたげると言うのである。
この盲亀がちょうど頭をもたげようとしたとき、その小さな穴のある板が東風に吹かれて南の方へ移動し始めた。
盲亀が東方へ遊泳してきてもその板が南方へ流されるので、その小板に触れることすらできない。
まして、小さな穴の中に頭を入れることは不可能であった。

それから百年過ぎたある日、盲亀が南方からきて一度だけ頭をもたげた。
すると例の小板はあいにくと南風に吹かれて西の方へ移動した。
このようにして、盲亀が西方からくると小板は西風にあおられて北方へ、
北方からくると北風に揺られてその小板は他の方向へ移動する。
このようにして百年に一度だけ頭をもたげ、ちょうどその小板の小さな穴に、
その盲亀が頭を突き出すことは至難である。


         (『中部』三・一六九頁以下。「南伝」第十一巻下、二百十六〜二百十七頁
                  漢訳『中阿含』巻五十三。「大正蔵」第一巻七百六十一中〜下)







この喩えは人間としてこの世に生を受ける事の難しさを語ったもので、
ダンマパダには以下のような詩偈として説かれています。


人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。
正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。

   (『ダンマパダ』第182偈)




私達はこの世間に「人間」として困難に打ち勝つ叡智と決断を備えられて生まれて参りました。
この「人」としての生を受ける事の至難を、盲亀の喩えとして教えられているのです。
ひとつの命が生まれるのにも、沢山の縁が絡み合い熟さなければ生まれては来られません。
まして、人間としての生を受ける事ができるのはどれ程多くの因縁が関わりあって結実されなければならなかったかを考える時、この「自分」と言う命が決して自分だけのものではないことを知り、決して疎かにしてはならないと思うのです。

最近体外受精や遺伝子操作などと言う生命科学の分野が非常に発達する一方で、命に対しての尊厳が軽視されるような事件が続出しております。
望まれて生まれる子供もいれば、その陰で望まれずにひっそりと命を奪われてしまう子供もいます。
盲亀浮木の喩えのように、至難の中でやっと得られた人としての命を、あっさりと捨て去る人もいます。



苦しいからこの世から逃げる、と考えるのではなく、どうしたらこの苦しみから抜け出す事ができるかと考える智慧を、私達は備えられていることを忘れてはいけないと思うのです。
お釈迦様の教えには、今、此処に存在していること、様々な因縁によって生じていること、苦しみや悩みにあるこの現実こそが問題すべきで事であって、それらを克服する為の智慧と勇気を懇々と説かれております。
時代や国は変わろうとも、この苦難の海(暴流)を渡りきる事に違いはありません。
お釈迦様の言葉から生きる智慧を学ぶ事は、人生を精一杯楽しむ事にも繋がるような気がします。

参考書籍  万人に語りかけるブッダ  (雲井昭善著 NHKライブラリー)









毒矢の譬喩

『ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしょう。
彼の親友、親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。
しかし矢にあたったその当人が「私を射た者が、王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるか、を知らない間は、抜き取ってはならない。 またその者は丈が高かったか、低かったか、中位であったか、皮膚の色が黒かったか、黄色かったか、あるいは金色であったか、その人はどこの住人であるか、その弓は普通の弓であったか、強弓であったか、弦や矢柄やその羽の材料は何であったか、その矢の形はどうであったか、こういうことが解らない間は、この矢を抜き取ってはならない。」と語ったとする。
それではこの人は、こういうことを知りえないから、やがて死んでしまうであろう。

それと同様に、もしもある人が「尊師が私のために、”世界は常住であるか、常住ならざるものか”などということについていずれか一方に断定して説いてくれない間は、私は尊師のもとで清らかな行いを修しないであろう。」と語ったとしよう。
しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、そこでその人は(苦悩のうちに)死んでしまうであろう。

     《  中阿含経 第60巻  箭喩経  》




この譬えからは、初期仏教に於ける基本的な姿勢が伺えます。
先ずひとつは、『無意義な議論は不要である。』と言う姿勢。
そしてもうひとつは『確実な根拠のない議論は不要である。』と言う姿勢です。




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