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 禅とは?

禅宗は原語「ディヤーナ」の音写で、禅定、静慮(じょうりょ)などとも言い、精神を整えて静かに思慮すること、瞑想することで、古代インド以来の修法です。
この禅定そのものはお釈迦様の時代から修されてきたものでありますが、一般的に「禅」という場合には「教外別伝(きょうげべつでん)」の師子相承(師から弟子への直伝)を宗とする禅宗を指します。
その師と弟子の系譜を「血脈(けちみゃく)」といい、初祖から現在まで繋がっています。

禅宗では、その初祖をインドの達磨(16世紀)、二祖を中国の慧可(えか)としています。
第五祖とされる弘忍に師事した慧能と神秀(じんしゅう:605〜706年)との代で大きく二派に分かれ、前者慧能の法流は、以後南宗禅として中国禅宗の主流となります。

また、後者
神秀の系統は北宗禅といわれ、後に衰徴するものの、その法系から「道せん」が来日して禅を日本に伝え、その中で最澄も禅を学んでいます。

禅の悟り

禅では最上禅(祖師禅)が最高のレベルの禅とし、特に唐代から宋代にかけてさかんになりました。
座禅をすることで、自己を徹底的に見つめなおす修行により、一瞬のうちに悟りを得る(頓悟:とんご)ことを目指します。
経典に書かれた教えに従って修行し、段階的に悟りに到達するのではなく、自身に内在する本来の清浄な心をつかむことが、即、悟りである、という考え方です。

そのために、特定の経典に依らず(不立文字:ふりゅうもじ)、座禅にこそ仏の教えがこめられている(教外別伝:きょうげべつでん)と説きます。
更に、座禅のみによって自己の心を極めて悟りを開こう(直指人心:じきしにんしん)、(見性成仏:けんしょうじょうぶつ)、と教えています。

禅の歴史

禅の思想的根底には、華厳教学など他の仏教思想からの影響がありますが、それに止まらず、特に宋代には、新儒学(宋学)といわれる儒教思想との相互関連が大きく作用して禅が大成されました。

五代以降、禅の流派が分裂していく中、臨済義玄(りんざいぎげん:1007〜72年)の臨済宗と、洞山良价(とうざんりょうかい:807〜869)・曹山本寂(そうざんほんじゃく:840〜901)の曹洞宗とが禅の主流となってゆきます。


臨済宗:りんざいしゅう


中国禅宗の中の南宋禅の系統に属する法系で、いわゆる五家七宗のひとつ。
六祖慧能に始まり、馬祖道一(ばそどういつ)や百丈懐海らを経て、臨済義玄を直接の祖とする。

臨済宗は「公案禅:こうあんぜん」と言われ、唐代の禅僧の言行など、公案(問答)の課題を師が弟子に伝えて。その解決、解答を求めることを通して悟りにいたると言う性格をもつ。

曹洞宗:そうとうしゅう


中国では臨済宗と同じく、五家七宗のひとつで、日本へは天童如浄(てんどうにょじょう:1162〜1227に師事した道元が伝えた。
曹洞宗は「黙照禅:もくしょうぜん」と言って、公案などのような課題を解決するのではなく、ただひたすらに座禅を実践すること(只管打座:しかんたざ)を教える。

黄檗宗:おうばくしゅう


中国では1644年に明が滅亡して清朝に代わった。
そのため、長崎には福建省を中心に多くの亡命者が渡航し、寺院を建立して先祖のまつりを行った。
彼らが福建省の黄檗山、万福寺(臨済宗陽岐派)から招いたのが隠元(いんげん:1592〜1673)である。
隠元は多くの弟子や工人を連れて1654年に来日。
江戸幕府にも歓迎されて宇治に寺地を与えられ、万福寺を開いて黄檗宗の祖となった。

〜 角川選書 仏教用語の基礎知識 山折哲夫著 参照 〜


禅の生きかた

禅の教えを言葉で伝えることは不可能だと言われていますが、敢えて言葉に表すならば、『言葉にも依らず、経験から生じる思慮などにも依らず、ありのままを受けとめる』と言う事ではないでしょうか。

静寂庵では「癒しの禅語」として幾つかの禅語をご紹介しておりますが、どの言葉も読んで理解するのではなく、感性で感じ取るような読み方をすると、文字の奥に隠されている本来の教えが見えてくるように思います。
ここで私がお話しする「禅の生きかた」とは、このように眼で見えるもの、肌で触れるものを重視した生きかたではなく、「心を重視した生きかた」であります。

この「心」とは、「ああしたい、こうしたい」「ああであって欲しい」「こうであって欲しい」と言う、自我ではなく、本来の「自分自身に備わっている心」を指しています。
自我から生ずる思いを少し遠ざけて、大自然の秩序に沿った素の心を呼び覚ましてみませんか。
子供の頃のような純真な浄い心は誰でも持っております。
ただ、それが忘れ去られている、或いは煩悩によって覆い隠されてしまって、自分でも「あるのか無いのか解らない」状態になってしまっているだけなのです。

人に罵倒されたら傷つきますね。
でも、その傷つく心は「自分が可愛い・・・」と言う自我が傷つくのであって、あなた自身が本当に傷ついているのではありません。
それよりも、罵倒した相手の貧しい心、愚かな心を憐れむべきだと思います。
ものごとをありのままに観る」と、このように、真実の姿が観えてきます。
自分とか相手とかが問題ではなく、本当に問題なのは「無知・無明」という暗闇の中に居るにも関わらず、それに気付かない愚かさこそ、本当に問題にすべきである事がわかるのですね。

最近問題になっている「虐め」も同じこと。
虐められる自分が悪いのではなく、虐める相手の貧しい心愚かな心が悪いのだと考えれば、何も自ら命を粗末にする必要はない事が解るでしょう。
虐める相手は、そのような貧しい心しか養えない、気の毒な境遇で育って来なければならなかったのです。
なんと可愛そうな人ではありませんか。
気の毒な人だとは思いませんか?
もし、そう思えるのであれば、あなたは既に「禅」の生き方をしているとも言えるわけです。


禅僧・名僧名言集


それではここからは、禅僧・名僧が残した逸話や名言をご紹介してゆきたいと思います。
それらを眼で読むのではなく、心で読んであなたの人生に活かしてみてくださいね。

【 明恵 】
みょうえ
1173〜1232
明恵は「華厳宗祖師絵伝(義湘絵)」という絵巻を作成した。
これは新羅における華厳宗の祖、義湘(ぎしょう)の伝記を描いた絵巻と言われているが、真の主人公は善妙(ぜんみょう)という若く美しい女性であったといわれている。
善妙は唐へ勉強に来た義湘に一目ぼれして「私の妄情を遂げさせて」と迫るが、義湘の求法の志を聞いて改心し、竜や大きな石に姿を変え、義湘をどこまでも支えてゆくという内容の絵巻である。
この絵巻の末尾に、明恵自身が善妙の行為を讃える詞書が付けられている。

愛心なきはすなわち法器にあらざる人なり
《栂尾明恵上人遺讃》

本来仏教では「愛」は執着であるが故に煩悩を生み出す根本原因と説かれて否定されているにも関わらず、明恵は「愛心のない人に仏法はわからない」と言っているのです。
 


【 一休 】
いっきゅう
1394〜1481
一休禅師は78歳の時に森女と言う盲目の遊芸人と出会い、翌年から同棲を始めたそうです。
その森女との恋愛を歌った詞には、赤裸々に性愛を詠ったものが幾つかあります。

楚台応(まさ)に望むべし
更に応によずべし
半夜、珠床、愁夢の間
花は綻ぶ、一茎梅樹の下
凌波仙子 腰間をめぐる

《狂雲集》

先の明恵が愛を肯定し、一休はこのように森女との愛を赤裸々に綴る。
悟りを得た名僧だからこそ、こうして声高らかに愛を詠いあげられるのでしょうか・・・


【 夢窓疎石 】
むそうそせき
1275〜1351
山水には得失なし  得失は人の心にあり
《夢中問答集》

天竜寺開山夢窓国師が、山水を愛好することについて述べた一文の中にある句です。
「自然そのものに損得や利害はない」のに、愛でる人の心に愛着や是非得失の分別心が生じ、それが果たして苦悩の根元になりうるのであります。

故に、そう言う愛着心や分別心から離れ、あるがままの山水に無心で接っし、それら自然界の移り変わりを修行の手立てとし、真実の自己を極めることの大切さを教えています。



【 沢庵 】
たくあん
1573〜1645
同じ禅を学ぶ崇伝に計られ、陥れられて、出羽上山の春雨庵に配流となった沢庵ですが、
領主、土岐頼行はまだ22歳の若さにも関わらず、禅に帰依すること深く、沢庵禅師を尊敬して、極めて行き届いたもてなしをしていたようです。
しかし、配流中に小出吉英という人物に送った手紙では、沢庵は土岐頼行から寄せられた金子は返し、衣類などは片っ端から人へやってしまい、夏はかたびら一枚、冬は綿入れ二〜三枚だけで過ごしていたことが伺えます。

また山城守の折角のご馳走も、沢庵にはご馳走過ぎて迷惑に思っていたようであります。
このように、貧寒の雲水として生涯を送った沢庵禅師。
その心の内を覗いてみると、

浅くとも よしやまた汲むひともあれば われに事たる山の井の水

という歌に伺えるように、真に深く自分を理解し、自分の深いところにある心を汲んでくれる者が殆どいないことをよく知っていながらも、その上で「浅く汲んでくれる人でもあれば、それで良い・・・」と言う孤高の人であったように思います。

また沢庵が著した、平易で味わい深い著作、「玲瓏集:れいろうしゅう」も有名です。

命ほどもつとも惜しむべきものはなし、高も賤も、各命長からざれば、本意を遂ぐことなし。
千々の財宝を捨てても、命はかふべき物なり・・・

《玲瓏集》

命を軽視する現代人に、ぜひこの沢庵の思いが伝わりますように。



【良寛】
りょうかん
11758〜1831
生涯、身を立つるにものうく
騰々 天真に任す
嚢中三升の米
炉辺、一束の薪
誰か問わん 迷悟の跡
何ぞ知らん 名利の塵
夜雨 草庵の裡
双脚 等間に伸ばす

 

国上山中腹にある五合庵にて、晩年良寛が詠んだ漢詩です。
沢庵も貧寒の生涯を貫いた人でありますが、良寛も自ら乞食僧として生き抜いた禅僧です。
良寛は沢山の歌を残しておりますが、漢詩の数も非常に多く、中でも次の詩は私の大好きな詩です。

痛ましきかな 三界の客
知らず いつの日にか休まん
往還す 六趣の岐
出没す 四生の流れ
君といひ 臣といふも
みなこれ 過去のむくい
妻となり 子となる
なにによってか 幽囚を出でん
たとひ輪王の位を得たりとも
つひには陶家の牛となtらん
痛ましきかな 三界の客
いつの日にかやまん
遥夜つらつら思惟するに
涙流れて収むること能わず 

煩悩に汚れて苦悩する人間の姿を見て、ひとり涙する良寛の優しさをこの詩は教えてくれるような気がします。
この良寛の、人間的な深い優しさを感じさせる逸話をご紹介します。

良寛は親戚から、放蕩の限りを繰り返す甥の馬之助を戒めてくれと頼まれて、馬之助の住む家に泊まり込むことにしました。
しかし、その気配を察したう馬之助は、なかなか家に近寄ろうとしません。
家に帰っても、良寛を避け続けておりました。
やがて良寛が泊まり込んでから三日目のこと。
「馬之助よ、わしはもう山へ帰るぞ。 ちょっと草鞋の紐を結んでくれんか。」と、良寛は丁度帰って来たばかりの馬之助に声をかけました。
馬之助が黙って紐を結んでいると、その襟元に冷たいものが落ちてきました。
見上げると、良寛の目から涙が滴り落ちていたのです。
以来、馬之助は、すっかり素行を改めたと言います。

ギリギリの裸の心が、人の心を打つ。
良寛の心の温かさに触れて、馬之助は心を洗い清められたのではないでしょうか。



【栄西】
えいさい(ようさい)
1141〜1215
鎌倉時代以前にも、日本には中国の禅宗が断片的に伝えられてきていたようですが、一般に日本禅宗の初祖は栄西とされています。
この栄西が、1198年に著した『興禅護国論』の一文を紹介致します。

大いなる哉心や
天の高きは極むべからず
而るに心は天の上に出づ
地の厚さは測るべからず
而るに心は地の下に出づ
日月の光は踰ゆべからず
而るに心は日月光明の表に出づ

心を表すには、言葉をもってしても不充分です。
心は言葉では表しきれるものではありません。
心とは、感じるもの。
心とは、観じてはじめて伝えられるもの。
まさに、これが禅の教えではありませんか?


【盤珪】
ばんけい
1622〜1693
播磨の国網干に生まれた盤珪永啄(ばんけいようたく)の説法は、解りやすく親しみやすいものであったと伝えられています。
その中のひとつをご紹介致します。


ある日、生まれつき短気な男が盤珪に尋ねた。
「僧問うていわく、それがしは生まれついて、平生短気でござりまして、師匠もひたもの意見をされますけれども、直りませず。
私もこれはあしきことじゃと存じまして、直そうといたしますけれど、これが生まれつきでござりまして、直りませぬ。
これは何といたしましたならば、直りましょうぞ。
禅師のお示しを受けまして、この度直しとう存じまする・・・」
云々と、この男は盤珪に短気の直し方を教えてくれと頼みに来ました。

これを聞いた盤珪。
「そなたはおもしろいものを生まれ附かれたの。 今もここに短気がござるか。
あらば只今ここへお出しゃれ。 直してしんじょうわいの。」

そう言われた男は。
「只今はございませぬ。 何とぞ致しました時にはヒョッと短気が出まする。」

盤珪
「然らば短気は生まれ附きではござらぬ。
何とぞした時の縁によって、ヒョッとそなたが出(いで)かすわいの。
何とぞした時も、我でかさぬに、どこに短気があるものぞ。
そなたが身の贔屓故に、向こうのものに取り合うて、我が面惑を立てたがって、そなたが出かして置いて、それを生まれ附きというのは、難題を親に言いかくる大不幸の人というものでござるわいの・・・」

この後も延々と盤珪の説教は続きますが、要するに、自分の自我から生じている「短気(瞋恚)」を、「生まれついて」と、他に責任転嫁する事の間違いを、盤珪は指摘しているのです。
自分の都合の悪いものはすべて外から来ると思い込むと、自分以外のものに対して「瞋恚」と言う毒を生じます。
かといって、自分自身の本来の心は「仏心」と言う清浄なものでありますから、その毒は何処から生じているかと言うと、「身贔屓故」の自我から生じる悪しき思いであるというのが、この盤珪の説教です。


【鈴木正三】
すずきしょうざん
157〜1655
おまえの胸の中にある、少しはものを知っているというその妄想をすっかり放り出してしまえ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて、道理などというものを称え消してしまえ。
そして虚空とひとつになれ、それが土になるということだ。

正三は関が原の合戦において本田佐渡守の手勢となって勇戦した、三河武士であります。
その武士魂が、この言葉からも感じ取られます。

本来は正三の家系は代々は曹洞宗でありましたが、正三は臨済宗の僧として出家致しました。
その後、また曹洞宗を称揚し、念仏の信心も広めました。
また禅僧でありながら師を持たない一匹狼であったようです。

彼は思いつめると人の思惑なども気にせず、思い通りに行動するあたりは典型的な三河武士であったと思われます。
一徹で馬鹿正直で駆け引きなども全く無い朴訥な人柄で、そのせいか彼の修行のやり方などもかなり強引であったと言われています。
あまりの粗食、あまりの荒々しい生活の為に、正三は死に瀕した事もありました。
医者であった弟は正三を診て、「薬など要らぬ、物を食わせればよい。」と言うと、それを聞いた正三は「なぜ早く言わなかったか、養生するならば死人でも食うぞ!」と言ったとか(笑)




【一遍】
いっぺん
1239〜1289
一切を捨離すべし  (一遍上人語録)

衣装を美しく着飾っていると畜生界に墜ちる。
食べ物を貪り求めていると地獄に堕ちる。
  (一遍上人語録)

一遍は「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を称えることで極楽往生しよう。」と言い、、その為に妨げとなる他の欲望は全て捨て去る事を説き続けた。
だが、、捨てようと思ってもなかなか捨てられないのが人の心。
そこで一遍は次のような歌を詠む。

身を捨つる  捨つる心を 捨てつれば
おもひなき世に  墨染めの袖

捨ててこそ みるべかりけれ 世の中を
すつるもすてぬ ならひありとは

「捨てる」という心も捨て、何も捨てるものがなくなって、はじめて「本当に大切なもの」を得られた喜び。
これこそが、一遍が追い求めていた境地なのかもしれません。




【鑑真】
がんじん
688〜763
何ぞ身命を惜しまんや。
諸人行かざれば、我即ち行くのみ 

 《唐大和上東征伝》


742年、日本からの要請で、仏法を伝えるために不退転の決意でのぞんだ鑑真和上の決意の言葉です。

昔、仏法は漢に伝わるも、漢人は詳しからず。
始めて呉に伝わるも、呉人は諦らかにせず。
故に摩騰(まとう)と僧会(そうがい)は、舎利を以て仏を験せしむ。
世、是より翕然としてこれに嚮かう。
我、法を伝えんと欲し、特に舎利を佩びるは、意は斯れに在るのみ。
《招提千歳伝記 巻上之一》


五回の挫折を乗り越え、盲目になってまで日本に仏法を伝えるため、来日する事に身命を投じた唐の僧。
釈迦の遺骨三千粒を持参したと言われています。




〜 参照 : 朝日新聞社 「仏教を歩く」    紀野一義著 名僧列伝 〜
順次更新してゆきます。m(_ _)m

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