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日々是好日 (にちにちこれこうじつ)


朝、カーテンを開けたら、どんよりと重く雲がかかって雨がシトシト。
肌寒く、出掛けるのがおっくうになるような天気の日。
しかも午後の予定はハローワーク。
こんな天気じゃ自転車は使えないから歩いて行かなきゃ。
明日はカードの支払いがあるから、お金の算段もしなくては・・・
あら?ストッキングが伝線してる!

こんな日に「日々是好日」なんて言ってられますか?
しかし「日々是好日」は、どんな日でも毎日は新鮮で最高にいい日だという意味です。
ムカつく日も悲しい日も、雨の日も風の日も、その時のその感情や状態を大いに味わって過ごせば、かけがえのない日になる。
新鮮な気持ちで目覚めたら、雨を楽しもう、寒さも味わおう、ハローワークも出会いの場だ、お金の算段も当てがあるだけ幸せだ。

ほのぼのとして幸せそうな字面ですが、なかなか難問です。



〜朝、起きると直ぐにお天気が良いのに感謝。
ご飯が美味しく頂ける事にも感謝。
夫が元気に会社へ出掛ける姿を見送れる事にも感謝。
こうして考えれば、感謝する対象は限りなくあるものです。
それに気付かず、不平不満で暮らす一日、なんと勿体ない事か・・・

                              華〜










喫茶去 (きっさこ)


よくいらっしゃいました。先ずはお茶でも召し上がれ。
日常の当たり前の光景ですが、お茶を差し出すことほど、私達の心を写し出すものはありません。
あなたは嫌いな人が来ても、お茶を召し上がれと言えますか。
到着した途端慌てて言い訳しょうとする人に、ご苦労さん、先ずは一杯、と相手の呼吸を整えてあげることを考えますか。
よく来たね、という気持も一杯のお茶が表し、寒かったろう、というねぎらいの気持も一杯のお茶が表します。
「喫茶去」とは、お茶を召し上がれ、と言うただそれだけの言葉。
抹茶をたてても番茶でも、理屈抜きに一杯を差し出すことこそ禅の心に通じます。
儀式でもなく、健康や喉の乾きのためともこだわらず、ただ、「さぁ、お茶をどうぞ」。

茶の湯とはただ湯を沸かし茶をたてて飲むばかりなる本を知るべし。(千利休)


〜日常の何気ない行為の一つひとつにも、心を込める事で世界はとても豊かに感じられるものです。
さぁ、あなたもご主人に一言「お茶を召し上がれ♪」なんて言ってみない?
新しい夫婦の関係が始まるかも・・・よ。

                              華〜







明珠在掌 (みょうじゅたなごころにあり)


眉間にシワが寄っていますよ。
何が不満なのですか?
あなたは自分の持っている宝に全然気付いていない。
どこにあるかって?
その手の中です。もう掴んでいるんですよ。
明珠とは、計りきれないほどの価値がある宝です。
それがあなたの掌にあると教えてくれている言葉です。まだ気付きませんか?
あなたはどこか遙か遠くに宝があると思って、一生懸命それを探しに行こうとしている。
ここには無いんじゃないか、故郷に置いてきたのか、日本では無いのか、この仕事を続けても宝には到達できないのではないか。この人と一緒にいてもダメなのか。
あなたは自分の掌を見ようともせず、まだ遠くに取りに出掛けようとしている。
でも、お坊さんだって自分が宝を持っていることに気付くために修行を重ねます。
自分をよく知ることは簡単そうに思えますが、かなり難しい事なのです。



〜自分の事は自分が一番よく知っている!
なんてふんぞり返っているあなた。
自分の顔に付いているご飯粒、鏡が無ければ解らないですよ〜!!
その鏡はみんな心の中に持っています。
一日一度は、自分で心の鏡を覗いてご覧なさいな^^

                              華〜







行雲流水 (こううんりゅうすい)


大空に浮かぶ雲。留まることなく流れていく水。どこまでも自由で束縛されていない様子が絵に描いたようにわかる言葉です。
行く手を阻む大きな岩が出てきたって、なんなく流れてゆく水は、こだわりなく執着無く海に向かってぐんぐん進む。
丸いものに入れられれば丸くおさまり、四角いものに入れられれば四角におさまっていますが、固まったわけじゃない。
誰も水に形を強制することはできません。

山頂で雲はすぐそこにあるように見えますが、誰も掴めない。
そんな風に自由に生きてゆきましょうよ、と禅語は言っています。

修行僧のことを「雲水」と呼びますが、これは「行雲流水」の雲と水からできた呼び名です。
居場所を決めずに、一箇所に留まることなく、いろいろな師をたずねて修行を重ねてゆくからです。



       


〜ネバネバした人生よりもサラッとした人生を送りましょう♪
何にも引っかかりの無い、サラサラした水のように、
大空を気持ちよく流れてゆく雲のように、
そう言う生き方を目指して、今日も一日頑張りましょう。

                              華〜






我逢人 (がほうじん)


「我 人と逢うなり」
人と人との出会いの尊さを三文字で表した言葉です。
心と心との出会い、物と物との出会い、人と物との出会い、出会いこそ命です。

道元禅師は、中国で念願の師と出会った時を「まのあたり先師をみる。これ人にあふなり」という言葉にしました。
自分だけで考えて、自分だけで行動していたのでは見つからないことがある。
だから、その人との出会いこそが全ての始まりだと思った、感動の言葉です。

構えた格好でも、些細な偶然でも、人との出会いは何かを生みます。
人は自分とは違う領域を持って生きている。
だから、出会いはあなたを広く深く成長させてくれます。
人と逢う事を大切に。
人に逢える場を大切に。
人と逢う姿を大切に。


〜人は人を求めてこの世界に生まれてきます。
あなたはその「人」に出会えましたか?
出逢いは次の出逢いに繋がります。

そして、あなたの世界が広がってゆくのです。

私との出逢いも、
きっと良い出逢いでありますように・・・

                              華〜




無事是貴人  (ぶじこれきじん)


「無事」とは、普段使う「ご無事で何より」の「無事」の意味ではありません。
何事も無いことではなく、何もしないこと。
あなたには全てのものが備わっているのだから、何もしなくていいんだよ、という意味です。
あなたの中には色んなあなたがいるでしょう。
我が儘なあなた。
ずるいあなた。
すぐ怒るあなた。
でも、純粋な人間性というものにも気付きませんか?
ひとりになった時だけに会える、素直で素敵なあなた。

そう、人間は、もともと全てを自分の中に持っているのです。
だから他に何かを求めていくのではなく、まずあなたの中の純粋なあなたに巡り会って下さい。
これが「無事」です。
そして、それがわかった人が「貴人」です。
アイラインをひく前に、何もしないでも目は輝いていること、思い出して下さい。



〜「無事」
事が無いのが幸せ、って感じられるのは、私のようにある程度年齢を重ねた者でないと解らないかな?
事があれば、心は動揺し、怯え、狼狽し・・・
とても平静ではいられません。
そのような心の状態は、精神や肉体まで蝕んでしまうもの。
事が無いことに、感謝致しましょう。

                              華〜






放下着 (ほうげじゃく)


捨ててしまいなさい、と言う意味です。
禅の言葉は徹底的に言い切ります。
「捨てるものがない」なんて言うと、捨てるものがないというそのことさえ捨ててしまえ!と。

名刺の肩書きが捨てられますか?妻と言う立場が捨てられますか?学歴が捨てられますか?貯金が捨てられますか?
二十種類以上もの薬を服用していた友人が、全てやめてしまったら健康になったと言う話には驚かされましたが、納得もしました。
捨ててこそ、本来の立場がくっきりと浮かび上がってきます。
荷物もオシャレも保険も持たずに旅に出るということは、旅の目的をはっきりとさせます。
その身軽さ、爽快さを味わってみて下さい。

捨てても生きられる人こそ本物。
すっぴんのあなたが素敵だと信じて欲しい。



〜「裸の私を見て欲しい!!」
決して卑猥な意味ではありませんよ^^;
何も飾らない、何も取って付けない素の私。
その素の自分に自信が持てるような生き方ができるようになりたいなぁ。。。


                              華〜






和敬清寂 (わけいせいじゃく)


キュウリとしらすの和え物は、それぞれの味が引き立って美味しいけれど、これをミキサーにかけてどろどろのジュースにしてしまったら、どちらの味も死んでしまう。
キュウリとしらすは、それぞれの個性の儘で一緒に小鉢にいてくれるのが平和です。
仲良しでいるという事は、自分を相手に合わせていれば良いというものではなく、自分という個性をそのままに、相手の個性もそのまま認めて一緒に過ごすということ。これが「和」です。
人間が同じでなければ仲良くできないのではありません。
同じでないからこそ、1+1=2以上になる可能性もあるのです。
だから、「あの人は自分と違う」と思えば思うほど、近づいて声を掛けてごらんなさい。
人との出会いがあなたを豊かにするはずです。
和でいるコツは、相手を敬うこと。
その結果、居心地の良い清々しい関係が出来ます。



〜天上天下唯我独尊、それぞれがオンリーワンの存在だから、自分と全く同じ考え、同じ意見の人はいない。
皆それぞれが違っているから、この世は面白い♪
心を広くすれば、違った相手も違ったままで受け容れられるよ、試してみて!

                              華〜






知足 (ちそく)

足るを知る。
私は幸せだ。
満ち足りているから、これ以上もっと欲しいと思わない。
これで充分満足だ。
こんな感じでしょうか。
こんな風に言うと、随分お金持ちの贅沢な暮らしをしている人のセリフのように聞こえますが、それは違う。
少しの「足りる」で満足していることを言っています。

足りていないと思ってる方に言いたい。
本当に足りてませんか?足りていると感じられたら、あなたはすぐに幸せになれるのに。




人の欲は際限がありませんから、自分自身の分を弁えて、欲を最小限度に抑える事はとても大切です。
そのように欲望を最小限に留め、今の状態に満足できると感謝の気持ちが湧いてきます。
この感謝の気持ちを持つことが、即ち悟りへと続く道なのですね。
周りを見回してみてください。
感謝するものって、本当に沢山ありますよ。
それらのひとつひとつに感謝の気持ちを持つと、心が幸せに満たされてきます。
「有難う。」「おかげさま。」
こんなに素敵で美しい言葉はありません。
今日も、この言葉を沢山言えたら良いですね。






一行三昧 (いちぎょうざんまい) 

 
禅の修行といえば座禅。
自分と向き合い、心の安定を得られる座禅に集中することは勿論「一行三昧」です。
ひとつの事に精神を統一して邁進する。
それを「一行三昧」と言います。
しかし寺で行うような修行アイテムだけではありません。
座禅をしなくても、日常生活の全てに際して心が素直で純真でいられたら、それもまた「一行三昧」なのです。
寝たり起きたり、どこにいても、どんな環境でも「一行三昧」することで、そこが極楽浄土になります。

あなたにとって、どこにいる時が「一行三昧」しやすいですか?
あなたにとって、何をしている時が「一行三昧」に近づけますか?
茶の湯の手前に無心になっているとき、掃除をしているとき、畑仕事をしているとき。
あなただけの「一行三昧」への入り口を探しておくこと、是非お勧めします。



私は一人遊びが好きです。
ひとりでコツコツと好きなものを作ったり、好きな本を読んだり、パソコンをしたり
きっと根暗な人間だと思われるかもしれませんね(笑)

誰かと一緒にいるのは、それはそれでとても好きです。
友人とお喋りしだすと、一日あっても足らないくらいです。
見知らぬ人にも案外気軽に話し掛けたりしますし、決して人間嫌いではありません(と、自分では思っています^^)
でも、人は基本的に「孤独」なんですよね。
それが解っているから、一人であろうと、誰かが傍に居ろうと、私は関係無いのです。
一人の時は、一人でしか出来ない事も沢山ありますし、誰かが居る時は、誰かと一緒に楽しむ事ってありますよね。
その時、その場に応じて、何かに一生懸命向かい合う事。
これが私の「一行三昧」なのです。







遍界不曾蔵(へんかいかってかくさず)

世の中は何かを隠していない。
真実は隠されているのではなく、全てあなたのまわりに現れている、という意味です。
だから、真実を知りたかったら、よく見る、よく感じることです。
それにはよく見える目を養うこと。よく感じる心を養うことです。

目が曇っていたり、心が閉ざされているから、真実が見えないだけなのです。
真実は何も隠すことなく、開けっぴろげにそこにある。
「顔に書いてある」、「おどおどしている」、「目の奥が笑っている」なんて言うあまり科学的ではない表現も、実は隠すことの出来ない真実を表しているのかもしれません。

「地球が悲鳴をあげている」「海が泣いている」。
自然こそ何も隠さずに全てを見せているのでしょう。
見えるか見えないかは人間次第。

私達の目や心は、頼りになるようで頼りにならない、当てにならないものだと思います。
一生懸命観ているようでも、恋人の心がわからなくなったり、子供が何を考えているのか解らなかったり・・・
それは何故なのでしょう?

実は、そこに「我執」と言うものがあるからなんですね。
ありのままを観ようとしない。
ありのままの真実を知ると、自分が傷ついたり苦しんだりしなければならないから、わざと片目でしか観ようとしないのかもしれません。
それでも、真実は真実として、歴然とそこに存在している事を忘れてはいけないと思います。

恋人の気持ちが離れていった。
友人が裏切った。
子供が万引きをした・・・・・

さて、あなたはその時どう考え、行動しますか?
世間において、自分の思い通りになる事なんて、たかがしれています。
あなたが思いもしなかった非常事態に遭遇した時、慌てず騒がず、冷静に判断し対応できるような強い精神を、普段から養い育ててゆくこと。
これはとても大切な事ではないでしょうか。






鏡分金殿燭 (かがみはきんでんのしょくをわかつ)

「鏡」は自分の映すものに惑わされない。
どんなに豪華な宮殿の中にいても、絢爛に輝く蝋燭に囲まれていても、「鏡」は自分を勘違いすることなく、無心でその蝋燭を映し出します。
輝いているのは自分ではなく、蝋燭であることを知っているのです。
そんな「鏡」のようであれ・・・という言葉です。

人によって対応を変える人は、傍から見ても嫌なものです。
「鏡」の本分はありのままに映しだすこと。
どんなに華麗でも、どんなに貧弱でも、「鏡」はただ無心で態度を変えず、映った相手を自分と見間違えることもありません。
廃屋に残った鏡は、無心に荒れた部屋を映し出します。
しかし、鏡自身が荒れた心になるわけではありません。
栄枯盛衰する世の中を共に生きながら、惑うことなく現実を、、本質を静かに映し出すのです。


流行に追われて四苦八苦しているあなた。
どんなに綺麗な服を着て、どんなに素敵にお化粧しても、本来のあなたの鏡は曇っていませんか?
鏡分金殿燭」と言う言葉を見て、ふとそんな質問をされているような気がしました。
有名なタレントを真似て、似合わない服を着て、派手なお化粧をして・・・
そんな「人まね」するよりも、自分は自分の美しさがあると言う事に気付きましょうよ。

人はそれぞれオンリーワン。
少し鼻が低くても、誰にも負けない愛嬌があるjじゃない!
少しポッチャリさんでも、誰にも負けない優しさをあなたは持っているじゃない!
そんな外見に拘らないで、自分に本来備わっている鏡をピカピカに磨き上げましょう。

内面が輝けば、その輝きは外へ溢れ出てきます。
そういう美しさこそ、本物の美しさだと思うけどなぁ〜








平常心是道 (へいじょうしんぜどう)

平常心とは、「当たり前の積み重ね」と言う意味です。
道を極めるというのは、特別なことを頭で考えてウルトラCを修得することではない、と言っています。
あなたが歩いていく人生という道。
これは起きて歩いて座って寝て・・・
この繰り返しで達することができるのです。
頭で策略を練って考えて生きてゆくのではないのです。

頭で考えたことはどんどん変化する。
頭で考えたことは白黒をはっきりつけたがる。
それに、知らないことは加味できない。
心の直感を後回しにする傾向もあります。

頭がいいと思っている人には聞き入れることが難しいかもしれません。

でも、あなたの知識で近道を探すより、あなたの感性に頼った方がまし。
生命の勘と習慣は、いざと言う時素晴らしく働きます。

人生には近道はないとあきらめて、当たり前のことを大切に育む日々が平常心です。


近頃は「当たり前」の事が出来ない人がとても多いように思いませんか?
朝、近所の人に出会っても、「おはようございます。」も言わずに通りすぎてゆく人。
狭い道を自転車に譲って端っこに避けても、「有難う。」の一言さえない人。
これらの言葉は、頭で考えて出す言葉ではなく、心で感じて、心から自然に発する言葉なのですね。
浄らかな心から自然に発する言葉はどれも相手の心に響いてゆくものです。
その感動が、また更に他の人へも伝わってゆきます。

カリカリ、イライラばかりしていないで、ほんの少し心にゆとりを持って周りを見まわして見てはどうでしょう。
心と心を通い合わせる切っ掛けは、色んなところに溢れています。
素直に、明るく、丁寧に・・・
人と接する時の、この「当たり前」を、もう一度心にしっかり留めて、ほら、挨拶してみましょう。
その瞬間、あなたの人生が変わりますよ。






一日不作 一日不食 (いちじつなさざれば、いちじつくらわず)

「働かざるもの食うべからず」に見えますが、これはそんな命令ではありません。
人は労働することが一番大切なことなので、それが出来ないなら食べることはできない、と言う自らを律した自発的な言葉。
しかし、現代社会で食べられない事を想像するのは難しい。
せいぜい、稼ぎが悪いと好きなものが買えないくらいが実感です。
禅のお坊さんにとって労働はとても大切な修行なので、こんな禅語がうまれましたが、私達にとってこの言葉はもう一つの教えが見えてきます。
それはわざわざ不作、不食に「一日」とつけてあるところです。

一日働いて、一日分食べる。
次の日も、一日働いて一日分食べる。
快食快眠快便でいろいろなものを溜めこまず、労働も溜めず、食も溜めず、毎日を勤勉に暮らすことが、精神的にも肉体的にも健康でいる秘訣なのです。


飽食の時代と言われて、街には何処へ行っても食べ物が満ち溢れています。
お金さえあれば、何でも美味しいものが直ぐに手に入る時代。
素晴らしい時代ですね。
私の子供の頃と比べると、まるで夢のような世界です。
こんなに素晴らしい世界になった反面、人の心はどう変わってきたでしょう?

現代社会では「ニート」と言う言葉をよく耳にします。
私も詳しくは知りませんが、「働けない」のではなく「働かない」人達なんだそうです。
働かない事に、意義があるのだそうです。
彼等にもそれぞれ言い分もあるかもしれませんが、私から言わせて頂けば、それは「横着」のなにものでもありません。
人間としての「誇り」は、彼等には無いのでしょうか?
人間として生まれた以上、何等かの形で社会に貢献する。
これが、人を人足らしめる最低限の義務ではないかと思うのです。
そう言う彼等を黙認している親も、社会も・・・
結局は「豊かさ」の中で、「真実の心」を見失ってしまっているのではないでしょうか。








喫粥了 (きっしゅくりょう)

禅寺の朝食はお粥です。
太陽と雲を読みながら、八十八日に渡って育てられたお米を、大地で濾過された水で研ぎ、火をおこして粥を炊く。千年経っても変わりません。
食べるのも一緒なら、食べ終わって茶碗を洗うのも一緒。千年経っても変わりません。
そして、これこそが「喫粥了」。

作って、食べて、片付ける。 これが修行の全てです。
水を使わずに「気」で洗えとか、食べ終わったら木っ端微塵に割ってしまえ、とか・・・・・まさか。
特別な修行なんてありません。
食べたら洗う。
当たり前のこと、やっていますか?

食べ終わって茶碗を洗うのに、夫がとか妻がとか、忙しいとか、稼ぎが良いとか、悪いとか、まったく関係ありません。
日常生活のすべてが修行です。
禅寺では炊事係を「典座」と言い、食事を作る心を修行とし、食べる時も「五観の偈」を唱えます。

*僧侶の食事作法のひとつだが、道徳的普遍性の高い文章であるため禅に限らず多くの分野で引用されている。五観文、食事五観文、食事訓とも。典拠は唐の南山大師道宣が著した『四分律行事鈔』。道元の著作『赴粥飯法』によって広く知られるようになった。

 【偈文】
一には功の多少を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
二には己が徳行(とくぎょう)の全欠を[と]忖(はか)つて供(く)に応(おう)ず。
三には心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
四には正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
五には成道(じょうどう)の為の故に今此(いまこ)の食(じき)を受く。

【略訳】
 一つ目には、この食事が調うまでの多くの人々の働きに思いをいたします。
 二つ目には、この食事を頂くにあたって自分の行いが相応しいものであるかどうかを反省します。
 三つ目には、心を正しく保ち過った行いを避けるために、貪りの心を持たないことを誓います。
 四つ目には、この食事を、身体を養い力を得るための良薬として頂きます。
 五つ目には、この食事を、仏様の教えを正しく成し遂げるために頂きます。

                 (参照 Wikipedia)



「お茶碗、洗った?」
それが「喫粥了」です。
自分が使った茶碗を、食べ終わったらちゃんと洗って、元にあった場所へ片付ける。

私達凡俗の者は、「修行」と聞けば、何か特別の事をしなければならない、と思ってしまいますね。
辛い思い、苦しい思いをしなければ、悟りには到達できないものだと私も思っていました。
でも、本当の修行とは、日々の生活の中にこそあるもので、山奥でなくても、滝に打たれなくても、今、居る、その場所が、その時が、修行の場なのですね。

子供が言う事を聞かないでイライラしているあなた。
どうすれば、あなたのイライラは収まりますか?
子供に、何が何でも言う事を聞かせたい?
それは、ただ単にあなたが我を通そうとしているだけではありませんか?

ご主人の帰りが遅いと怒っているあなた。
そんな怒った顔でご主人を迎えてたら、益々ご主人の足は遠のいてしまいますよ。
怒った顔より、素敵なあなたの笑顔で迎えてあげたら、きっと明日は早く帰って来るのじゃないかな?

そんな風に、全てを自分の中へ向けて問い直してゆく事も、立派な修行なのではないでしょうか。








看々臘月盡 (かんかんろうげつじん)

テレビドラマでは毎日のように人が死んでゆきます。
ニュースでは殺人事件、新聞は訃報を伝えています。
そしてたmに身近な人のお葬式。
人が死んで逝くのを見る機会は日常です。

死んでその人の一生が終わる。
自分の命も容赦なく尽きていくのだから、そのことから目を逸らさずに、「命に限りがあることをよく見ていなさい。」と言う意味の禅語です。

臘月とは十二月(陰暦)のことで、一年が終わるのと、命が尽きるのをかぶせています。
一日一日、命はつきていく。
ボーっとしているのが好きならそれでもよし。
やりたいことがあるなら、先送りせずに今日からチャレンジ。
自分の心と身体に耳を傾けて、欲していることを叶えてあげられるのも、生きていてこそ。

人が喜ぶのを見るのが好きなら、双方生きているうちに。
お金儲けだって、命の尽きるまでです。
そのお金を使うのも生きているうち。


毎日毎日、多くの人が死んで逝きます。
葬儀場の煙が上がらぬ日はありません。
そんな中でも、私達は「自分はまだまだ死なない」と思っている。
そんな思いあがった気持ちを捨てて、この世間の仕組みをありのまま見つめなさい、と言っているのです。
生まれたばかりの赤ん坊が死に、年老いた者が生き残る事もあります。
正義に燃えて、正しい道を歩んできた者が先に死に、悪の限りを尽くしてきた者が命を生き長らえる事もあります。
そのように、この世間は不条理で、矛盾に満ちて、情け容赦の無い苦しみの世界です。
しかし、どのような生き物でも、必ず命に限りがあると言う事に関しては、差別はありません。
他人を騙してあくどくお金を稼いで財産を増やしても、命が尽きるともはや自分のものではないのです。
どんなに整形手術を繰り返して美貌を保っていても、命を延ばせる事はできません。
でも、他人の心に「愛」と言う灯火の火を点す事ができれば、その愛の火は永遠に、人から人へ、心から心へと広がってゆきます。
まるで、一本の松明の火から、沢山の松明に火が点されてゆくように・・・

この限りのある命を、あなたならばどう使いますか?







下載清風 (かさいのせいふう)

積み荷を降ろして軽くなった船が、清風にのって軽やかに航海する、という言葉です。
両手に一杯、肩から下げた荷物も背中に背負った荷物も、全部降ろした気持ちよさ。
飛ぶように歩けるその時の気持ちは、誰でも経験したことがあるでしょう。
この禅語はそのことを教えてくれています。 そう、降ろすのは心の荷物。

心の中の迷いやこだわり、嫉妬心や心配や執着心も、ぜ〜んぶ港に降ろしてしまったらどんなに気持ちがいいものかと。


もう余計なものは積まないようにしょう。
いつの間に心にあんなに荷物をしょいこんでしまったんだろう。
こんど荷物に出会ったら、目をつむらずに向き合って断ろう。
二つに一つの選択を迫られたら、二つとも捨ててしまおう。
この船以外に生きていくのに必要なものなどないはずだ。
そう、船が健やかなら、人生は自然の清風が運んでくれるはず。


年齢を重ねると共に、物も段々と増えてまいります。
あれも捨てられない、これも捨てたくない・・・
あれも必要、これも必要・・・
気がつけば、身動きとれないくらいに物で溢れかえってしまっている我が家です。
でも、本当に必要なものってこの中にどれくらいあるのかしら?
無理して買った高価なブランドのバックも、何処へも行かない私にはただの飾り物。
必要と思って買った真珠のネックレスだって、年中タンスの引き出しに眠らせたままだし。

心の中も同じ事。
過ぎ去ってしまった過去の嫌な思い出を、いつまでも大切にしまい込んでしまっている。
大切な人に裏切られた悔しさを、何年たっても引きずっては恨み言を繰り返している。
知らず知らずに子供たちへ執着心を抱いてしまって、親から離れて巣立ってゆく事に素直に喜んでやれないもどかしさ・・・

私は50歳を境に、これまでは得る事を目標にしてきた事を、今度は捨ててゆくことを目標にしょうと決心しました。
一度手に入れたものを捨ててゆく事はとても難しいものです。
でも、いつかは否応なく捨ててあの世へ旅立たなくてはならないのですから、今からボチボチとその準備をするのも良いかもしれません(笑)
まず、欲望を少しずつ捨ててゆきましょう。
執着心も捨ててゆきましょう。
過去の恨み辛みも捨ててゆきましょう。
軽々とした心で、人生の最晩年の航海を存分に楽しみながら旅だってゆけるように・・・








一樹春風有両般 南枝向暖北枝寒 
(いちじゅのしゅんぷうりょうはんあり なんしはだんにむかい ほくしはかん)


一本の樹に春風が吹いた。南の枝には暖かく感じられても、北の枝には届きません。
同じ事が起きても、違う育ち方をする二つの枝。
だから「春風が吹いて良かった良かった、これでもう花が咲く。」と諸手を上げて喜んでいるわけにもいきません。
単純に決めてかかると世の中を見誤ります。
事実はその裏で予想しない展開になっていることがあります。

貧しさの中で強く生きるアフリカのある国へ、親善大使として訪問した女優が、自分に出来ることは何かと考えて、美味しいお菓子をプレゼントしょうとした事があります。
彼女の案内人はそれを感謝し、しかしさえぎりました。
「その美味しさを知ってしまったら、この子たちは明日から、この生活が辛くて貧しいものであることに気づいてしまうので。」
吹かせるのが難しい春風もあります。



同じこの地球に生まれて育ってきても、国が違うと言うだけでまだまだ冷たい北風の中で生きているような人たちが沢山います。
時々テレビで放映される隣国の貧しい子供たち。
厳寒の中の路上生活で、凍傷によって手や足を失ってしまった幼い子供たちの姿は、見るに忍びない程哀れで悲しいものでした。
それでも、仲間たちに助けられ、支えられて一生懸命生きようとしている彼らの中に、人としてとても大切なものを垣間見る思いでした。

それに引き替え、日本の子供たちはどうでしょう。
美味しい物に囲まれ、暖かい部屋で布団にくるまって大切に育てられている子供が殆どではないでしょうか。
それでも、更に美味しい物を求め、安楽な生活を求めて、それが叶えられない事に悩み苦しみ、果てには自暴自棄になってしまう子供もいます。
自分の苦しみを他人に理解して欲しいと言う欲求ばかりを主張して、まるで他人の痛みを分かろうともしない、いえ、察する事ができるような豊かな心を持っていないのですね。
これが「豊かな生活」を手に入れた、私たち日本人の現代の姿ではないでしょうか。

物が溢れかえっていても、貧しい心の親が子育てをするから、子供の心も益々貧しくなるばかり。
物が無くても心が豊かであれば、どのような環境でも「幸せ」は見つけられます。
それを教えてやれない大人たち。

あなたは現在の生活に感謝していますか?
それを、子供にちゃんと伝えていますか?
この世界で一番大切にしなければならないもの、それは「感謝の心」であると言う事を。







独釣寒江雪  (ひとりつるかんこうのゆき)


寒い雪の中で、川に小舟を浮かべて釣りをする独りの老人の姿を描いた水墨画「寒江独釣の図」は有名です。
これを禅語としているのは、世間と隔絶された孤独な世界で、厳しい修行をする禅僧の姿に似ているからでしょう。
どこで修行をしていようとも、このような心境であれ、と言う意味です。

まだ夜も明けない雪の中、川で釣りをしていると、釣ることに集中して寧ろ暖かささえ覚えるんだよ、と言うのは実際に釣りに行った人の話。
相手にしている魚や投げ込んだ糸の音に驚いて飛び立つ鳥の存在に孤独を忘れ、暗闇と一体になってくるのだと聞きました。

そういえば厳寒の北陸で雲水さんたちがいきいきとしているのは、ただ厳しくて孤独なだけではないはずだと思えてくる。
疑うわけではありませんが、あの禅画の老人も、魚との対話に寒さも忘れ、孤独も忘れて結構楽しんでいるに違いない。


いつか見た水墨画の光景が、さぁ〜っと目の前に浮かんで来るような禅語です。
雪が深々と降っている中、小舟の上で独りの老人が黙々と竿をたれています。
寒いだろうなぁ・・・ 独りで寂しくないのかなぁ・・・
そんなことは、老人にとっては余計な詮索なのかもしれません。
老人は、寒くもないし、魚と楽しく会話をしているのかもしれません。

傍で見て感じる事と、本人が感じている事って、正反対の事があるものです。
お金持ちで、何ひとつ不自由なく暮らしている隣の奥さん。
いつもブランドの服に身を包んで、綺麗にお化粧して・・・
旦那様は大きな会社の重役だとか。
子供は一流大学に通って、これまた高級車を乗り廻して・・・
なんて恵まれた人たちなんでしょう。

それに比べて、我が家の亭主は万年安月給。
ひとつくらいは有名ブランドの服を着てみたいと思っても、生活するのがやっと。
子供は三流大学にようやく滑り込んだくらいで、親父に似てパッとしないし・・・

ほらほら(笑)他人と比べるのはおやめなさいな。
あなたには、あなたの幸せがある事に気づかなくては。
給料が安くても、一生懸命汗水流して、嫌な上司にペコペコ頭を下げて、それでも家族の為に毎日働いてくれている優しい旦那様。
三流大学であっても、親に負担をかけまいとアルバイトで小遣いを稼いでいる立派な息子さん。
家族それぞれの部屋が持てないくらい狭い家だからこそ、夕食後もみんな揃ってテレビを見る事ができるのですよね。
父親と息子が、お笑い番組を見て大笑いしているこの我が家こそ、あなたの幸せを感じさせてくれる大切な場所。
その中心に居るのは、暖かい太陽のような「あなた」なのですよ。
もっと「我が家」に自信を持ちましょうね。







家和万事成  (いえわしてばんじなる)

家が穏やかで安住できてこそ、世の中で事を為し遂げる事ができると言う言葉。
家がとげとげしく、家族の心が離れてしまって、わずかな事で口喧嘩。
玄関をバンッと閉めて出かけるなんて・・・

家はエネルギーを蓄える所。休息して英気を養う所。
もし不穏な空気を感じたら、外で事を成すことより、家の調整が最優先です。
ここは身体の健康と同じ、全ての土台となるのですから。

家はあなたの居場所、迷ったら帰る所。
夫婦だけでも家族でも、全員が居心地良い場所を作りましょう。
どんな家、どんな家族を作り上げるかは誰にも遠慮せず、どこの家もお手本にすることなく、比較することもなく、自由にやればいいのです。
家族が寄り添って暮らす事の醍醐味は、そこに裸になった気持ちのぶつかり合いと仲直りがあることかもしれません。
家の中での心の相撲は、外に出た時の練習。


人が生きてゆく上での土台となる場所は「家庭」です。
しかし、現代ではこの大切な家庭が、殆どが「ただ、食べて寝る」だけの場所になっているような気がします。
私は古いタイプの人間かもしれませんが、女性の一番の勤めは「家を守る」事だと考えているので、例え共稼ぎで仕事を持っていても、一番大切な「家庭を守る」と言う勤めは疎かにしてはならないと思っているのです。

「家を守る」と言うと、若い方は「掃除がきちんと行き届いて、料理も手抜きをしない」事を思い浮かべるかもしれませんが、それ以上に大切な勤めがある事を忘れてはいけません。
それは何かと言うと「家族にとって居心地の良い家庭」を築く事です。
その為にはどうすれば良いかと言うと、「我」をなくす事。
自分が美味しいものを食べたいから料理をする、と言うのは「我」です。
相手に美味しい料理を食べさせてあげて喜んで貰いたい。
これが慈悲の心です。
家族が疲れて帰ってくる家を、綺麗に掃除して気持ちよく休息できる場所にしてあげよう。
出かける時には明るく「いってらっしゃい〜!」と、明るい笑顔で気持ちよく送り出してあげよう。
戻って来たときは「おかえりなさい♪」と、気持ちよく迎えてあげよう。
仕事でミスをしてションボリしている夫を励ましたり、学校で虐められ、泣いて帰ってきた子供を励ましたり・・・
決して、自分の気分に振り回されるのではなく、いつも家族の事を一番に考えて行動する。
このように、慈悲の心で家族を包み込むことこそ、「主婦」として一番大切な勤めであると思っています。

「そんなこと言っても、私だって仕事を持っているし、育児も家事もしなければいけないのに、身体が持たないよ〜!」
きっとそういう方もいらっしゃるでしょうね。
でもね、何事も最初から投げ出さないで、「確かに、無理なものは無理だけど、自分のできる限りの努力はしよう。」。
という気持ちを持っている事がとても大切だと思いますよ。
全てが完璧にこなせなくても、あなたの「一生懸命」の姿を家族は必ず見ています。
それが切っ掛けで、家族の心が一つになり、必ず良い結果に繋がってゆきます。
でも、それを目的にしてはいけません。
あくまでも「無心」で、一生懸命家族に尽くす事。
それが、女性の本当の役目ではないでしょうか。







洗心  (せんしん)

お寺の手水鉢は、手を洗い口を清めるだけでなく、心も洗うために置いてあります。
汚れた心を洗うため。
つまり改心してから修行に向かいなさい、と言うわけです。
そう言われても、泥棒して警察に突き出されそうになった時くらいしか「改心」なんて思いつかない。
普段はすっかり忘れています、心を洗うこと。

いい音楽やいい景色を見た時にも「心が洗われるようだ。」と言いますが、折角ですからもう少し頻度を上げましょう。

祈祷を受けに行くのでも座禅修行でも、むしろ観光で立ち寄った時にも、神社仏閣神聖な場所に向かう時はいつでもこの事を思い出して、その度「洗心」してみてはいかがでしょう。
心の曇った部分をよく洗い流す。
錆びたり固まったりしていませんか?
そのカビは、随分心を放っておいた証拠です。
心を洗った後は、ありがたい言葉がスゥ〜ッと染みてくるようです。


仏教では、私たちの「身、口、意(心)」は不浄なものとされています。
毎日入浴して歯は磨いているものの、心を洗うところまで気が回らないのが現実ですね。
論語に「 曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の爲に謀りて忠ならざるか、朋友と交りて信ならざるか、習わざるを傳うるか。 (學而第一)」と言う言葉がありますが、私たちも一日一度くらいは、自分の言動に対して自省してみる必要があるのではないでしょうか。
心の中にある真理の鏡が曇っていないか、歪んでいないかを日々点検し、その鏡に自分の言動を照らし合わせてみてはどうでしょう。

妬みや僻みで心がくすんではいませんか?
間違った判断を正しいと思いこんではいませんか?
心は「すっぴん」が良いのです。
何故なら、元々私たちには「仏性」と言う最高の美を備えて生まれてきているのですから。
余分なものを付け足すのではなく、知らず知らずについてゆく「余分なもの」を落としてゆくのです。
お風呂に入って身体を綺麗に洗ったら、一緒に心まで洗う習慣を身につけるのも良いですね。



                       





鳥寒上樹 鴨寒下水 (とりさむくしてきにのぼり、かもさむくしてみずにくだる)

にわとりは寒いと樹に上り、鴨は寒いと水に入る。
寒さに対して同じ鳥でもこんな風に違う方法をとるのだから、私たちも十人十色でいいじゃないか、と言う禅語です。

同じ目的でも全く違う方法をとる事はままあります。
たとえばダイエット。
痩せたい気持ちは一緒でも、痩せる為にダイエット食品を食べる人と、痩せるために食べないと言う方法をとる人。
どちらが良いとか悪いとかではなく、他人の勧めでもなく、自分が納得して自分の体質に合った方法を選べる自由が大切です。
勉強の方法も同じ。
友達と集まって勉強するのが好きな人。
一人でないと集中できない人。
でも、合格したいと言う気持ちは一緒です。
あの人は勉強会に参加しないで、抜け駆けしようとしている、なんて決めつけは意味がありません。
自分のやり方をひとつひとつ見つけることで、人生は少しずつ過ごしやすくなります。


私たちの人生は、幸せ探しの人生とも言えるかもしれません。
その「幸せ」とは、人それぞれ違います。
物やお金に囲まれて暮らすことが幸せだと思う人もいれば、お金には縁が無くても、何ものにも束縛されずに伸び伸びと暮らす事が幸せだと思う人もいるでしょう。
夫や彼に愛される事が幸せと感じる人もいれば、一人で子供を育てて、その成長を見守る事に幸せを感じる人もいます。
どの生き方も、決して間違いではないと思います。
自分が正しく判断し、そして決断し、そして、責任を持って行動しているのであれば、誰にも気兼ねなく堂々と生きれば良いのです。
他人と同じではない事に不安を感じるのではなく、幸せも、生き方も、人それぞれ違っていて良いのですから、人真似ではない本当の自分の幸せ探しの人生を、胸を張って歩いてゆきましょう〜







両忘  (りょうぼう)


生死を忘れる。貧富を忘れる。苦楽を忘れる。
二元的な考え方をやめることです。

生きている時に「死んだらどうしょう」とくよくよ考えないで、生きる事に徹すると、死を忘れる事ができます。
さらに、死ぬことも生きていることも両方とも忘れると、心に静寂が得られます。

「あの人は私を愛しているのか愛していないのか」。
そういう風に白黒はっきりとさせなければ気がすみませんか?
もし、愛していないという結論出ても満足ですか?
あなたが愛しているのなら、愛することに徹すればいい。
愛しているか、愛していないかの両方を忘れて、ただ見つめ合ったらいかが。
白か黒かと考え始めてしまうと、美しい灰色も忘れてしまいます。


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愛が得られないと嘆く前に、愛を与えられる人になればいい。
人の優しさを求める前に、人に優しくできる人になればいい。
何事も、求める前に与えられる人になればいい。
そうは思いませんか?

求めても得られない事が「苦しみ」となります。
仏教では「求不得苦:ぐふとっく」と言って、四苦八苦の中のひとつに数えられています。

あなたが求めているものは、きっと相手も求めているものかもしれません。
だから、あなたが欲する事を、相手にまずしてあげましょう。
あなたが人からされて嫌な事は、相手もきっと嫌なはず。
そう言う事は、決してしないように心掛けたいものです。

「幸せになりたい・・・」と、誰もが願います。
でも、あなたは本当に不幸なのでしょうか?
不幸の数を数えるよりも、幸せの数を数えてみませんか?
ほら・・・幸せな気分になれるでしょう?

心は不思議です。
ちょっとだけ、心の向いている方向を変えれば、今まで気付かなかった事が沢山に見えてきます。
その心をコントロールするのは、誰でもありません。
あなたなのですよ・・・




** 看脚下 (きゃっかをみよ) **



同じ意味で「脚下照顧:きゃっかしょうこ)」とも言います。
お寺の廊下などに札が立ててあるのを見ましたか?
「足元に気をつけなさい。」「靴を揃えなさい。」と言う、日常の言葉として使っていますが、これは「自分自身のことを顧みるのを忘れないように、と言う標語なのです。

たとえば何かに頼って生きていると、それが失われた時に一歩も進む事ができなくなります。
前を行く人の背中を追いかけていると、ふと見失って迷子になる自分。
上へ上へと昇っていく時も、上だけ見ていたのでは、足元の岩を踏み外してしまいます。
だから「進みたい」と思った時には自分の足元を見てください。

一歩を踏み出すのはあなた自身。
他の人のことを気にしてばかりいては進めません。
一歩 一歩、自分の足で丁寧にゆっくり歩き出せばいいのです。
あわてない、あわてない。
靴を揃えるのは次なる行動のためでもあるのです。

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他人の言った事やした事に対して批判ばかりする人。
人に「ああしろ!こうしろ!!」と注文つける人。
何か困った事が生じると、先ず他人のせいにする人。
あなたの隣にこんな人はいませんか?
そして何よりも、あなた自身は大丈夫でしょうか?

「自分は大丈夫!」と思っているあなた。
その「大丈夫!!」と思い込んでいるところに危険が潜んでいるのですよ。
この禅語は、そう言う「戒め」の言葉でもあります。

「靴を揃える」と言う行為は、「自分自身の行いを顧みる」ことであると共に、更には「次なる行動の準備」でもあります。
自分自身が「正しく生きているか?」を問い、過ちがあれば正してゆく。
全て自分自身に課す戒めなのですね。

>曾子曰 吾日三省吾身・・・
布団に入ったら、眠る前に必ず一日を振返り、反省すべき事はしっかり反省し、感謝すべきことは感謝して一日を終える習慣を身につけること。
現在、私自身に課している戒めです。
そのお陰でしょうか?凄く前向きな考え方ができるようになってきました(笑)

皆様も是非お試しくださいませ〜☆




** 隻手音声 (せきしゅのおんじょう)**


隻手とは、片手のこと。
両手を打たなければ音は出ないのに、片手から出る音を聞け、と言うのです。
つまり、声なき声を聞くと言うことです。

理屈と現象にばかり捕らわれている人には一番難しい事でしょう。
言った、言わないなどで喧嘩になることがありますが、証拠があったとしても喧嘩が収まるわけじゃない。
言った言葉の裏に本当の意味が隠れているから、それを読みとってやるまでは収まらない。
何を言ったか、その言葉という現象だけでは聞こえてこないもの、見えていないものがあるのです。

わからない事があると、すぐ「なんで?」と聞く人がいます。
すぐ「私にはわからないわ」という人がいます。
人に説明の努力をさせたり、わかろうと努力を投げてしまう前に、「隻手音声」。
声なき声を聞いてごらんなさい。

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朝は元気に学校へ行った子供。
帰って来たら、何となく元気が無いように感じる。
「何かあったの?」と聞いても「何にもない。」と言い張るけれど、何か変・・・

そんな時ってありませんか?
「何もない。」と言う言葉の裏に隠されているものを、あなたは見落とそうとはしていませんか?

私自身も覚えがあるのですが、「言いたくても言えない時」と言うのもありますよね。

私も含めて、女性と言うのは「夫の浮気」に対しては凄く神経を敏感にして、「何もない。」と言われても、その言葉をそのまま信じこむ事は少ないように思うのです。
その結果、隠していた浮気がバレて大騒ぎ、なんて事もよくありますね(笑)
でも、子供に対しても、それ程敏感になっていると言えるのでしょうか?
占導師として活動している私の感覚から申し上げますと、残念ながら「子供に対しては鈍感」な親が多い、と言うのが現状です。

夫の言動にはピリピリと神経を尖らせている女性でも、子供の言動に対しては無関心、或いは表面上だけしか受け止めていない人がとても多いのです。
朝、元気に学校へ行った子供が、帰宅後何だか元気が無い。
「どうしたの?」と聞いても「何でもない。」と言われると、「何でもなかったんだ!」と安心してしまうのですね。
でも、これが夫だったらどうでしょう?
「いつもとは違うぞ!」ってピンッと感じたら、夫の「何でもない。」の言葉だけで安心してしまう妻って少ないんじゃないかな?
「何でもない!」と言われると余計に詮索したくなって、穿り返さなくても良い問題まで穿り返してしまったり(笑)

最近特に増えている子供の「苛め問題」ですが、大切な子供が「自殺」と言う大それた事を考えるには、余程の「思い」を抱え込んでしまっているわけですね。
それが言動に出ないわけはありません。
「何でもない。。。」の言葉の向こうにある「思い」を感じ取る為には、日々のコミュニケーションがとても大切ですね。
子供の心が何処に向いているのか、と、親はいつも神経を尖らせて見守る必要はあると思います。
夫の「声なき声を聞く」よりも、子供の「声なき声」を是非聞いてあげて頂きたいのです。
それができるのは、お母さん・・・貴女しかいませんよ。

華〜



** 白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく) **


山肌に隆起した苔むした幽玄な巨石を、豊かな白雲がふわりと優しく、抱くように包んでいる天上の様子です。

人の気配のない深山での「幽石」と「白雲」のコンビネーションは壮大なスケールで、荘厳でありながら慈悲をも感じさせる柔らかく暖かい関係。

無心で生きてきた苔むす石と、それを優しく抱く雲。

あなたはどちらに自分を見ますか?

周りに何も束縛するものがなく、心が純粋で素直になった時、あなた本来の姿が、その心の赴くままの行動に表れます。

何の計算もなく、何の事情もなく、何の心配もなければ、あなたは何を抱くでしょう。
それとも、今のあなたを優しく抱いているのは誰でしょう。

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自由で止まる事も無く、ふわりふわりと空をさ迷いつづける雲と、悠久の年月を山肌にじっとしがみついている巨石。

想像するだけでも、心がとても「雄大」になってゆくような禅語ですね。

大自然には、私達の生き方を教えてくれるものが沢山あります。
この禅語も、そのひとつです。
戦後、雲のような自由な生き方を求め続けて来た私達。
自由は得られたけれど、果たしてそれが幸福であったといえるのでしょうか?
やはり何処かにしっかりとした「根っこ」が無ければ、それはもう「ゴム風船」のように、風に乗って当てもなくさ迷うしかありません。
それはまるで現代人の荒んだ心のようです。

反対に、嵐の中も、大雪の中も・・・
じっと山肌にしがみついている巨石。
そのように、何かに拘り続けて、何かを守ろうとして・・・
そんな生き方が幸せなのでもないでしょう。

でも、巨石は雲にはなれません。
雲も、巨石に変わる事はできません。
お互いに相手にしか無いものを持っているから、相手を尊ばなければならない。
これは、全てのものに関して当て嵌まる事ではないでしょうか。

自分と相手の違いを認め、相手を尊重して大切に敬う気持ちは、結局は相手のみならず自分をも敬い、大切にする心に繋がるのだと、この禅語を見て感じさせられます。

〜華



** 和光同塵(わこうどうじん) **


クリスマスイヴ。
少年が、ボロを着たホームレスのおじいさんに親切にしたら、次の日夢が叶っていた・・・
その人は、実は神様だったのです!
そんなクリスマス映画がありました。
仏様も同じことをされます。
そのまま俗世に登場したのでは才智の輝きでみんなびっくり。バレてしまいます。
だからその光を和らげて隠し、塵や埃で汚れた世間に混じって人々を救済する。 これを「和光同塵」といいます。


水戸光門にしても、暴れん坊将軍nしても、街の中に出ると一般人よりとても謙虚でおとなしい。
皆を救済しょうとするような慈悲の心は、まず自分の智徳を見せびらかさず立派なところを隠すところからはじまります。
これを「和光」というのです。
危ないところを助けてくれた青年が、名前を名乗らず立ち去るシーンもよく見ます。
「和光」の心は世界各地でちょっといい話を生んでいるようです。


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この世界は「光」があるから「闇」があり、もし「闇」が無ければ「光」だって存在しないでしょう。
同じように、「悪」があるから「善」があり、「汚」があるから「浄」があり・・・
このように、相反するものが存在して、「ある意味」を成しているのが世間ではないでしょうか。
それならば、「悪」にも、とても重要な意味があることに気付きます。

一般的に、人の死は喜ぶべきものではありませんが、これが年の順(順縁)であれば、喜ばしいものでもあります。
何故ならば、いずれはすべてのものが「死」のドアを開けて、向こうの世界へ旅だって逝かねばならないのですから。
これが若い者から亡くなってゆく逆縁になれば、是ほど悲しむべきことはありません。

私達ひとりひとりの性格だってそうですね。
すべての人が完璧な人間ばかりであれば、「善人」というのは存在しない事になります。
欠点を持つ私達が、それぞれ切磋琢磨して魂を磨き上げるのが、この世間という場なのですから、ひとりひとりに欠点があって丁度良いのかもしれません(笑)

自分の都合で物事を「善」とか「悪」とか決めつけるのではなく、もっともっと広い心で判断するようになれたら良いですね。

〜華



** 春は花
夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえてすずしかりけり *
*


美しい自然の光景を歌いながら、物事の本来の姿というものを思い起こさせる道元禅師の言葉です。
この句を借りて、本当のあなたを引き出してみましょう。

春は花で夏がほととぎすなら、あなたは何?
あなたは何をしたい人?
あなたはどんなことが好きな人?あなたはどんなことに感動する人?
あなたは何が嫌いな人?

答えられますか?
答えられた人は本来の自分の姿を知っている人。
答えられない人は、自分の本当の姿をもう一度よく観察したほうがいいですね。
自分というものを見失って誤魔化しながら過ごしていると、好きなものに出会うチャンスを失います。
春は花であるように、夏はほととぎすであるように、自分のことに関して自然な本来の姿というものを知っていてこそ、人生の次のステップに進むことができます。

***********************************************************

鏡を見ないと自分の顔が解らないように、自分自身の本来の姿って解り難いものです。
自分の本来の姿知るために、心の中にある鏡を磨きましょう。

歪んでいれば、正しい位置に戻して。
曇っていれば、綺麗に磨いて・・・

そして、一日一度は、この鏡に自分自身を映し出してみましょう。
今日のあなたは、どんな風に見えますか?
昨日よりも、ちょっとでも美しく見えるのなら、あなたは成長しているってこと。
昨日よりも、少し醜くなっていると感じたら、その原因を見つけて改善してみましょう。

「心の鏡」は、いつも綺麗に磨き上げて持っていたいものですね。

〜華



** 無常迅速 (むじょうじんそく) **


人生はあっと言う間という意味。
あっという間ですよ。 本当にわかっていますか?
だから時間を無駄にしたくない。 一瞬一瞬を無意識にやり過ごさない。
怠惰に過ごさない。 時間は待ってくれません。

無駄な時間を過ごしたなぁ、と思った時が何度かあるでしょう。
それはどんな時でしたか?
気持が散漫で、あれよあれよという間に時間がたってしまった時。
何をすべきか考えあぐねて思いが定まらぬ間に時間が経ってしまった時。
たいていのことは何かの役に立つか、教訓になっているはずですが、向かう方向の決まっていない時間はとかく無駄な時間と感じます。

さらに、自由を奪われた時間も無駄になる。
自分らしくなく過ごした時間はカラッポです。

いつも心の中の「正直な自分」に、問いかけながら進むのが時間を無駄にしないコツ。


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平均寿命が延びたとは言っても、私達がこの世に生きて居られる時間はたかだか80年余り・・・
「その時」がくれば、嫌でもこの世から去って逝かなければなりません。
この限りある時間を、私達は本当に自覚して日々過ごしているでしょうか。
分かっているつもりでも、何をすれば良いのか解らないままに無為に過ごしている時が殆どではないでしょうか。
そう言う無駄な時間を無くす為にも、「目的」をしっかりと持つ事は大切ですね。

私自身も若い頃は何の目的も持たずに、随分無駄な時間を過ごしてきました。
この年になってみて、始めて「勿体ない事をした・・・」と感じます。(笑)


〜華



** 好雪片片 不落別処  (こうせつへんへん ふらくべっしょ) **


降る雪のひとひら ひとひらがそれぞれ個性的で素晴らしく、落ちるべき場所に落ちて行く・・・

ありのままの自然を、絶対肯定的に受け容れる如来蔵の禅的境地をあらわした言葉です。
いかなる媒体をも経ない自然との融合にこそ「心理(悟り)」はあるのです。

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これは私が大好きな禅語のひとつです。
そらから雪が舞い落ちてくるけれど、それぞれが、それぞれの落ち着く場所へひらひらと舞い落ちてゆく・・・
その光景が、目の前に広がってゆくような、そんな素敵な禅語ですね。

この世の中のすべてのものが、それぞれに「自分の落ち着き場所」「自分の居場所」があって、うまくそこに収まるものであります。

人間の「ああしょう」「こうしょう」と言う「はからい」など、この自然の摂理の前には、何の力も持ちません。
余計な「はからい」は捨てて、今の一瞬一瞬を、自分の可能な範囲で正しく全力で生きること・・・
それが、「禅の生き方」ではないでしょうか。


〜華



** 行亦禅坐亦禅 語黙動静体安然 **
(ゆくもまたぜん すわるもまたぜん  ごもくどうじょうに たいはあんねんたり)


座禅をしたり、写経をしている特別な時だけが禅ではない。
仕事をしていたって、遊んでいたって日常のすべてが禅の実践なんだということです。

禅を実践するということは、モノに心を奪われないから贅沢をしないし、いただいた身体だから大切に、暴飲暴食もしない。
自分の中にある純粋で素直な本来の自分といつも言葉をやりとりしているから、現象に騙されずに生きていかれる。
無理をせず背伸びをしないで、あなたはありのままのあなたでいられる。

これが全部、一瞬も忘れずに実践できるとしたら、ダイエットにも悩むこともなかっただろうし、カードローンにも追われなかったろうし、相続問題のいがみあいもなかったはず。

暮らしの中にいつも禅の心を。

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ある学者が南陰禅師(なんいんぜんじ:明治時代の禅僧)に、禅について質問をした時、禅師は一杯のお茶でもてなしました。
彼は茶碗にお茶を注いだのですが、お茶が溢れても注ぎ続けていたので、学者が「禅師、お茶が溢れていますよ。」と言うと、禅師曰く・・・

『あなたはこの茶碗のように、頭の中が自分の見方や考え方で溢れておる。
まず自分の茶碗をからにしてから、禅とは何か、私に質問されよ。』と、申したそうで御座います。

いくら科学が発達したとは言っても、科学で解決できるものは大自然界の中のほんの一部分にすぎません。
まだまだ、大自然から学ぶべき事は沢山あります。
でも、知識や思い込みで溢れかえった頭では、大自然が語る「教え」を学ぶ事ができないのですね。

心も頭もスッカラカンにして、目前にある路傍の花を眺めれば、その花の本来の美しさ、自然の偉大さ、命の輝きを感じることができるでしょう。

その花はどういう種類のものなんだろう?
花の名前は???
食べられるのかな?
イヤイヤ、毒があるかもしれん!!
とかく、知識と言うものは「本来の姿」を曇らせてしまうものです。

人や獣に踏まれても、踏みつけられても、時がくれば芽を出し花を咲かせ、自分の役割をきちっと果たして枯れてゆく・・・
こんな小さな花でも、沢山の事を教えてくれるものですね。
それを感じる心が「禅」の心なのです。


〜華



** 時時勤払拭 (じじにつとめてふっしょくせよ)**



心を曇らす塵やホコリは、毎日払ったり拭ったりしなさい、という禅語。

ある時、料理研究家のキッチンが使っていないように見えるくらい美しいので、クリーナーに秘密があるのか、と言う問に、
「毎日拭くことです。 明日に掃除を持ち越さないこと。
汚れは溜まると落ちなくなります。毎日拭いていると、汚れは簡単に落ちるので力も手間もいりませんよ。」

毎日積み重ねることの大切さ。
溜めてしまってはこびりついてしまいます。
それが心ならなおのこと、曇って見えない鏡のようでは、見逃してしまうこと、見えずに誤解してしまうことで思わぬ災いにもなりかねません。

自分の心は鏡のようだと思ってください。
よく磨きあげておきましょう。
塵もホコリも、毎日溜まるものは毎日払う。
その積み重ねが人生。

************************************************

「今日はお天気が悪いから、掃除はお休みにしょうかな?」
「あら!雨が降りそう。。。今日は洗濯もお休みお休み!!」

ついつい、言い訳にもならない言い訳をして怠けてしまう。。。
これは女の悪い癖かもしれません(笑)

法華経信解品の中に、女人が成仏しにくい五つの障り(女人の五障)と言うものがあります。

「欺:ご」・・・信ずべきものが信じられなくなること。
「怠:だい」・・・初々しさをなくすること。
「瞋:しん」・・・怒り・憎しみ
「恨:ごん」・・・生きている間中恨むこと。
「怨:おん」・・・死んでからも怨むこと。

どうですか?、あなたにも心当たりはないですか?
私?。。。私は全部心当たりがありました(笑)
これらを無くしてゆかないと、仏にはなれないんですねぇ。
精進!精進!!


〜華



** 掬水月在手 弄花香満衣 **
(みずをきくすればつきてにあり
はなをろうすればかえにみつ)


夢中になってテレビドラマを見ていたら、まるで自分のことのように悲しくなって泣いてしまった、と言う心境でしょうか。
テレビドラマは作り物であるのに、自分と一体化してしまうくらい没頭した状態のことです。

水をすくった手に月が映り、花とたわむれていたら着物に香りが染みこんだ。
月は遠い空のものだったのに、花は愛でるものだったのに、いつのまにか自分のからだと一体になってしまった。

そんな境地は誰にでも得られます。
この境地こそ発見の土台になります。

真剣に、親身になってモノに取り組むと、相手と一心同体になれます。
すると見えなかったものが見えてくる。 真実が見えてきます。
包丁に真剣に取り組むと、包丁が自分の手のように動きだす、とは、ある板前さんに聞いた話。

************************************************
う〜〜〜ん・・・これも綺麗な禅語ですね。

以前、テレビで見たことがあるのですが、外国のあるベビーシッターさんはとても「高給」なんだとか・・・
何故なんだろう?って見ていたら、「赤ちゃんの気持ちが分かる」んだそうです。
赤ちゃんと会話ができると言うか。。。赤ちゃんの言っている事が分かるそうなんです。

自分のお腹から出てきた子でも、愚図って何を言いたいのか分からない時ってありますものね。
これは凄い!!って、思わず見とれてしまいました(笑)

私は、このベビーシッターさんは赤ちゃんと一心同体になれる人なのだと思います。
我が家で飼っている二頭の目つきや顔つきで、私は彼らが何を言っているのか分かるように・・・
そう言うふうに、相手と一心同体になれると、きっと相手の気持ちが分かり、新しい発見があると言う事なんですね。

「一心同体になる・・・」
その為には、相手に興味を持たなくてはいけません。
そして、相手を好きにならなければダメですね。
「相手」と言うのは、人間に限ったことではありませんよ(笑)
何でも良いんです。

海に行けば、泳いでいる魚と一心同体になって、魚の眼から見た海を観る。
山に行けば、何百年もの年月を経た老木と一心同体になって、世の移り変わりを感じてみる。

どうですか?
心がとても広くなったように感じませんか?
「心は自由自在」が一番です。


〜華


** 把手共行 (はしゅきょうこう)**


共に手を取って歩んで行く、という意味です。
結婚式の挨拶にぴったりかなぁとも思えますが、さて、手を取り合う相手とは誰のことでしょう。

四国巡礼のお遍路さんの笠には「同行二人」と書いてありますね。
あれは辛い道のりだが二人で歩いて行こう、というもので、たとえ一人旅でもそう書いてあります。
あの場合、一人は自分、一人は弘法大師様だというわけです。

ここでは、普段の生活の中でこの言葉を思い出して頂ける解釈をしてみましょう。

あなたの心の底の方に。とても純粋で正直な自分はいませんか?
たまに顔を出しては「おいおい、自分よ、大丈夫かい?」と呼び掛けてくるもうひとりの自分。
それが手を取り合うベストフレンド。

世の寒風にさらされ、くじけそうになった時、見失いそうになった自分と、少しお喋りをしてみてください。
「把手共行」が勇気をくれます。

******************************************************

どんな人にも、誰にでも、仏性という「もう一人の自分」が存在します。
いつもいつも、あなたの事を心配しながら、あなたと共に、あなたの人生を共に歩んでくれているのです。

心の中で迷った時、おそらくあなたは誰かと心の中で自問自答しているでしょう?
「あぁ〜、今日は何だか仕事に行く気にならないや・・・
サボっちゃおうかな?」なんて思っていると、心の底の方で「サボる?今日は確か大事な会議があるはずじゃなかったのか?」って言う声が聞こえて来たりしませんか?(笑)
「いやいや・・・今日の会議は、特に僕が居なくても構わないんだよ!」
「またそんな勝手な理屈を言って!!」・・・なんて叱られたりもしますね(笑)

仏教では、この「もう一人の自分」と言う存在が、とても尊い存在であると説かれています。
何かに迷った時、素直な気持ちになってこの「もう一人の自分」に相談してみるのも良いですよ。
今までとは違った答えを教えてくれるかもしれませんね。


〜華


** 漁夫生涯竹一竿 (ぎょふのしょうがいたけいっかん)**


漁夫は竹の竿一本あれば、生涯生きてゆける、と言う意味なのですが、この禅語を見ると、自分の欲の深さに辟易させられます。
私なんかは、あれも欲しいこれも欲しい、あれが無くては生きていけない・・・と言うものばかりで(笑)

ちなみに、この禅語と対になっているのが「山僧活計茶三畝(さんそうがかっけいちゃさんぽ)」です。
要するに「これさえあれば生きていける」と言うものなのですね。
自分が生きてゆく為に「これさえあれば」と思えるもの。
それは、生きて行く為の最低限のもの、命を繋ぐ最低限必要なものなのです。
これさえあれば、財産や名誉や地位や・・・
諸々のものに振り回される必要もない。
そう言う伸び伸びとした心境で生きられたら良いですね。

そこまで達観できなくても、先ずは一つずつ不要なものを見つけて捨ててゆきましょう。
それぐらいの事ならできるかも(笑)


〜華



** 悟無好嫌 (さとればこうおなし)**


あなたは好き嫌いはありませんか?
食べてもいないのに、あの食べ物は嫌いだとか、よく知りもしない人でも、あいつはどうも気に喰わん、とか(笑)

この禅語は「あるがままを受け容れてみる」大切さを教えています。
好悪の判断を下すのは、私達の中に潜む「我」が原因。
私の知人のご主人はとても好き嫌いが激しいそうで、テレビを見ていても、嫌いな俳優が出ると途端にチャンネルを変えてしまうそうです。
それまで夫婦で楽しく見ていたドラマなのに、嫌いな俳優が出てきた途端に後は見られなくなってしまう。
その奥さんは、続きが気になって仕方がなかったとか(笑)
そう言う事を聞くと、「勿体ないなぁ・・・」と思ってしまいます。
人を表面だけで好き嫌いすると言う事は、それだけ自分の世界を狭くしてしまう事になります。
井の中の蛙は、狭い井戸の中がすべてだと思っています。
自分の居る世界が狭い、と言う事にも本人は気づかないのです。
外の世界には素晴らしいものも沢山あると言うのに・・・
だから勿体ない、と思うのです(笑)

この世に生まれて来る事の難しさを喩えた「盲亀の浮木」と言う説話があります。

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盲亀浮木(もうきふぼく)の喩え

寿命百千歳になる一匹の盲亀があった。
この盲亀は大海から大海へと流れ浮いている浮木を求めていた。
この浮木は一枚の小さな木の板で、そこにはちょうど亀の頭が入る程度の小さな穴があいていた。
風に吹かれ波に揺られた浮木はひとつところに定着しないで、いつも洋上をゆらゆら流れ浮いていた。

そこへ一匹の亀が百年に一度東からやってきて、たった一度だけ頭をもたげると言うのである。
この盲亀がちょうど頭をもたげようとしたとき、その小さな穴のある板が東風に吹かれて南の方へ移動し始めた。
盲亀が東方へ遊泳してきてもその板が南方へ流されるので、その小板に触れることすらできない。
まして、小さな穴の中に頭を入れることは不可能であった。

それから百年過ぎたある日、盲亀が南方からきて一度だけ頭をもたげた。
すると例の小板はあいにくと南風に吹かれて西の方へ移動した。
このようにして、盲亀が西方からくると小板は西風にあおられて北方へ、
北方からくると北風に揺られてその小板は他の方向へ移動する。
このようにして百年に一度だけ頭をもたげ、ちょうどその小板の小さな穴に、
その盲亀が頭を突き出すことは至難である。

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是ほどの至難を乗り越えて、折角この世に生まれてきたのに、狭い井戸の中しか知らずに死んでゆくなんて、本当に勿体ない・・・
そう思いませんか?

「好き」とか「嫌い」は二の次にして、そのものを「あるがままに受け容れ」てよくよく吟味してみると、案外、得難いものであるかもしれませんね。


〜華



** 千里同風 (せんりどうふう)**


どんなに遠くに離れていようとも、そこには同じ日月の光有り、同じ風が吹いています。
長女は東京に、後の三人は関西に、そして私は高知に・・・
母子家庭で肩を寄せ合って生きてきた私の家族は、それぞれ離ればなれになってしまいました。
これも諸行無常と割り切ってはいるものの、時には無性に寂しくなる時があります。
そんな時は空を見上げて、「あの雲の下辺りで、子供達は今何をしているのかな?」と、思いに耽ったりします。
爽やかな風が通り過ぎると、この風は、もしかしたら子供達の頬を撫でてきた風かも・・・なんて(笑)

「あの人と自分は生き方も考え方も全く違うから・・・」と言って敬遠する前に、人は皆同じ太陽の下で、同じ風に吹かれて悩んだり苦しんだりしながら生きている存在であることが理解できれば、そんなちっぽけな確執なんて吹っ飛んでしまうような気がします。

それぞれに違いがあるから、世間は面白いんです。
そして、どんなに違っていても本質的には違いが無いから、相手の痛みや苦しみを自分のものと感じる事もできるのですね。


〜華



** 任運騰騰 (にんぬんとうとう)**


いつまでも過去の事を後悔し、まだ来ぬ未来の事に心を悩ましていないで、今現在を、自分のできる限りの精一杯の善行で過ごすこと。
それさえ心掛ければ、後は運を天に任せて伸び伸びと日々を送れば良い、と言う意味です。

少し横道に逸れますが、運には「天運=または天命、宿命、神秘運」と言って、自分自身に課せられた「運」と言うものがあります。
これは絶対的で、自分の力では如何ともし難い運であります。

更には「地運=環境運」と言って、自分の周囲の環境、例えば家族であるとか友人知人などの影響で、自分の幸不幸を左右する運を指します。
また、自分の居る場所(住居や職場など)から受ける影響も、この地運の範疇に属します。

そして「人運=自力運」。
この運こそ、私達ひとり一人の努力で思う存分開拓できる運なのですね。
古今東西の成功者と言われる人達は、この人運を積極的に開拓してきた人々であるとも言えるのです。

ただ、いくら任運騰騰と言いましても、過去の失敗を反省し、同じ失敗を繰り返さないようにしなければ、人生は前進致しません。
失敗は誰の人生にもあるものですが、その失敗を「反省」するか、「後悔」だけで終わらせるか。
この違いで、その人の人生は180度違ったものになるのではないでしょうか。

「反省」には、将来を見据えた積極的な姿勢が伺えます。
「今」と言うこの一瞬を最善に生きようとするならば、過去の失敗を学びの土台としてステップアップしなければならないのです。
そう言う繰り返しが、人生を成功に導く大きな力となり、喜びへと繋がってゆくのですね。。
逆に言えば、失敗しない人生には「成功の喜び」を感じる事も無いでしょう。

この世に生まれてきて、ただ長生きをして時がくれば去って逝く。
そんな虚しい人生よりも、悩んだり苦しんだりした果てに掴み取る喜びを感じる事ができれば、例え天運地運に恵まれなくても、心から「幸せな人生だった」と思えるような気がします。



〜華



**  風従花裏過来香  (かぜかりょりすぎきたってかんばし) **

花々の間を過ぎてきた風が、花そのもののように香っている。
もともと香りのない風が、花と出会って影響を受けたのです。
それにしてもなんと美しい文字並びでしょう。
こんなに美しい影響ならいいけれど、私たちが行動する限り、そこのところは選べません。
影響を受けた方が良いのなら気楽ですが、これは良くない影響を受けそうだと、かたくなに拒否する硬直な態度だとなおさら深みにはまってしまうこともありがちです。

いっそのこと、恐れることなく花に出会い、花の間をくぐりぬけて香りを運んでみましょう。
出会うことも修行、運ぶことも修行。無心でいればいいのです。

たぶん、私たちが最初に影響を受けたのは父と母。
そして父と母も子供の影響で時代をとらえ、人間の育つたくましさを学んだかもしれません。

どちらも影響を受けたくないと逃げられるものでもなし。
影響こそが人生を形づくるのです。


続 ほっとする禅語70より〜

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久し振りに禅語の本を開きました。
影響かぁ。。。
私自身も色んな縁を受けて、そして影響を受けて生きてきました。
中でも一番喜ばしいのは、お釈迦様に出会ったこと。
お釈迦様の教えに触れる機会を得られたことです。

ある事件が切っ掛けで、自分の中に醜い鬼が潜んでいる事を目の当たりにした時、私はそれまで毛嫌いしていた経典を開いたのです。
こんな私でも仏縁を頂けたのでしょうか。
あれから六年・・・

仏教に触れてから、私の人生は一八〇度好転しました。
信仰心の無い私でも、こうして救われる事がでるのですから、お釈迦様の教えは本当に素晴らしいと思います。
その感謝の思いを込めて、こうしてお釈迦様の教えを広めるお手伝いを、微力ながらでもさせて頂ける事に心から感謝しております。

生きとし生ける全てのものが、どうか幸せになれますように・・・

     華  拝



** 担雪填井 (ゆきをになってせいをうずむ)**



無駄な話はしない。 無駄な食べ物は食べない。 無駄な人とつきあわない。

あなたの周囲から無駄なことをなくしたら、まことに効率のいい人生になるでしょう。
出掛けないから化粧をする必要がない、靴も洋服もバッグもいらない。
歩かないから転ばない。怪我もしないからお金は貯まる一方。 いいことづくめ。

しかしなんだかつまらない。 これまでの人生を振り返ってみて下さい。
あの無駄な長旅で妻に出会い、あの無駄だと思った仕事で仲間の優しさに触れ、病気という無駄の骨頂でやっと人間の弱さを知り、破産してなお笑顔で迎えてくれた母の愛に涙した。

井戸を雪で埋めようとするような無駄な仕事。 無駄な努力。
それは確かに手柄を求めた努力ではなく、結果だけを狙った努力でもない。
この禅語は、そんな無駄な努力ができる心こそ大切だといいます。


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何でもそう・・・無駄だと思えば、何でも無駄になってしまうけれど、そんな生き方はつまらないですね。

人生と言う長い旅路には、少しくらい遠回りしたり道草を食ったり・・・
そんな無駄な事も必要な気がします。

時には迷子になって彷徨ううちに、思い掛けなく素晴らしい出会いがあるかもしれません。
また、これまで見た事もないような感動的なシーンに出会うかもしれません。
無駄だと思っていたところに、案外人生の神髄を見つけられる事もあるでしょう。

四角四面の設計図通りの人生なんてつまらない・・・そう思いませんか?
たった一度しか無い自分の人生ですもの、少々の冒険心は失いたくありません。

さてさて・・・今日はどんな無駄をして楽しもうかなぁ。。。(笑)


   〜華〜



** 百雑砕 (ひゃくざっさい)**



心の中のモヤモヤした煩悩をこっぱみじんに打ち砕いてしまえ!
禅のお坊さんの厳しい一言。捨てるだけではだめ、もっと過激に粉々にです。
百雑砕した後は、心が軽くなり、捨てただけと違って修復、再生できる可能性もないので未練も持てず、きれいさっぱり人が変わったように陰がなくなることでしょう。

こっぱみじんを実行するのは、あなたを悩ませ迷わせ惑わせている煩悩が対象です。
嫉妬する心。人をうらやましいと思う心。人を分別するこころ。人のせいにする心。
こんな心を思いっきり破壊してください。
迷いのひとつひとつを解決しているより、いっそ思い切って、強い気持ちでこっぱみじん。


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心の中に積もり積もった煩悩。
この煩悩を木っ端微塵に打ち壊してしまえ!
そういう厳しい意味を込めた禅語です。
煩悩というものは捨てても捨てても次々と生じて心を悩ますものです。
捨てるだけでは甘い! 心の中にある嫉妬心も執着心も、自分を甘やかす我侭な心も・・・
すべて木っ端微塵に打ち砕いてしまいなさい、と言う事ですね。
砕いても砕いても湧き上がる煩悩に負けないで、今日も百雑砕に精進いたしましょうかo(*^▽^*)oあはっ♪

参考・・・石飛博光著 ほっとする禅語  続ほっとする禅語 (二玄社) 
   


以下工事中です!!


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