仏教豆知識
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仏教には縁が無いと言う人でも、知らず知らずに使っている仏教から生まれた言葉って沢山ありますね。
その中から幾つか書き出してみました。
菩薩のような慈悲に溢れ、誰もが敬い愛したくなるような表情が本来の意味。
禅宗においては、「一挨一拶:いちあいいつさつ」と言い、師が弟子僧へ、或いは修行僧同士が言葉や動作で、その悟りの深浅を試す。 これが転じて、私達が日常的に行う、相手への応答や礼儀・親愛の情を表す意味となる。
インドの文字である「梵語:ぼんご」では始めの言葉に「あ」と言って口を大きく開いて発音する言葉を「阿」と訳され、一番最後にある「ふーん」と口を閉じて発音する言葉を「吽」と訳す。 私達が使っている日本語の「あいうえお」は、この梵語がを参考にして考え、整理されたものである。
仏教で説く八寒地獄の1つに、阿浮陀(あぶだ)地獄というものがあり、口の四悪業を犯した者が落ちる地獄。 この地獄では極寒の為、身体中に腫れ物ができると言われる。 現代ではこの阿浮陀が「あばた」となり、天然痘などのあとの痕跡の意味として用いられるようになった。
仏教の説く八大地獄の中にも、阿鼻地獄「無間地獄:むげんじごく〈休む間もなく苦しみを受け続けると言われる〉」、叫喚地獄〈煮えたぎる熱湯が入った大釜の中に投げ込まれたり、猛火で焼かれた鉄の部屋へ放り込まれたりすると言う〉のそれぞれの地獄の様が説かれていて、あまりの苦しさから亡者が泣き叫ぶ事から、阿鼻叫喚と言う言葉を用いるようになった。
人間として生まれてくる事の難しさ、更には仏の教えに遭遇する事の有り難さを教えた言葉。 「盲亀浮木:もうきふぼく」の譬喩にあるように、ひとつの命が生まれるのにも、沢山の縁が絡み合い熟さなければ生まれては来ない。 まして、人間としての生を受ける事ができるのはどれ程多くの因縁が関わりあって結実されなければならなかったか、更には、仏の教えに出会える事が如何に希有な事であるかを考えた時、自ずと感謝の気持ちが湧き上がって来る。 この気持ちを「有り難い・・・」と表している。
放射線状の線を引いた形が、阿弥陀仏の光背に似ていたから。 帽子を「阿弥陀にかぶる」と言うのも、笠などを後ろに傾けてかぶると光背のように見えたから。
この慣用句は地獄・極楽を日本で始めて著わした恵心僧都(源信)の往生要集(985年)に依っている。 それによれば地獄は八つあり、そのひとつに「大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)」がある。 ここは嘘偽りを言った罪人が落ちる地獄で、鬼が熱したヤットコで舌を抜く。 抜くとまた舌が生え、それをまた抜くと言う苦しみが永遠に続くのである。 *最近の子供にはあまり通じないかも(笑)
「方便(ほうべん)」とは、ある目的を実現する為の一時的な手段の事。 仏教用語では、菩薩が衆生に正しく伝える為に用いる仮の方法を指す。 「法華経」では、それぞれの時と場合に応じて「方便」を使って法を説く事が重視されている。 「人をみて法を説け」と言う諺も同じ意味。
多少非難の意味を込めて使う事が多いが、仏教本来の意味では、天界の最高所のこと。 仏教では、命あるものが住む世界は、下から「欲界」「色界」「無色界」があるとし、これを「三界(さんがい)」と呼ぶ。 「無色界」を更に四つに分けた頂点を「有頂天」と言う。 そこから、最高点に登りつめたような気持を表す言葉になった。
作りそこなう事。不良品。
仏教では貪(とん:貪り)瞋(しん:怒り)癡(ち:愚か)慢(まん:驕り)の四つの基本的な煩悩があると教える。 慢には七種類あり、そのひとつが「我慢」。 我慢とは、「自己に拘り、全ての他人より自分が勝っていると信じている」事を指す言葉で、煩悩そのものなのである。 ちなみに、【七慢:しちまん】とは。 【慢(まん)】 他と比較して驕り高ぶる事。 【過慢(かまん)】 自分と同等の人に対し、自分の方が上だと思う事。 【慢過慢(まんかまん)】 自分より優れた者に対し、自分の方がもっと上だと思い誤る事。 【増上慢(ぞうじょうまん)】 悟りの域に達していないのに、既に悟っているという自惚れの心の事。 【我慢(がまん)】 自分に執着することから起こる慢心の事。 【卑慢(ひまん)】 はるかに優れた者と比較し、自分は少ししか劣っていないと思う事。 【邪慢(じゃまん)】 間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張る事。
「金輪際」とは「金輪」の底のこと。 仮に底を越してしまったら、水や気体や虚空の世界に落ちてしまう。 「金輪際」は、取り返しがつかないギリギリの場所を指す。 そこから転じて、「金輪際、浮気をしません。」と言うように、強い否定の意味を表すようになった。
仏教では「因果応報」に代表されるように、ある結果にはその原因があると考える。 この言葉もそのひとつ。 善因なら善果、悪因なら悪果がもたらされる、と言うのが基本的な教え。 仏教的には「自分の行為は必ず自分に返ってくる」と言う意味。 *華:あえて付け加えるならば、自分の身・口・意から生じる全ての行いは、必ず自分に返ってくる。 それゆえ、常に善い行いをしろと言う教えに繋がる。
四苦とは、人間が生きていく限り決して免がれない「生・老・病・死」と言う四つの苦しみ。 これに「愛するものとの別れ(愛別離苦:あいべつりく)」「嫌いなものとのつきあい(怨憎会苦:おんぞうえく))」「欲しいものが入手できない(求不得苦:ぐふとっく)」「心身の苦しみ(五蘊盛苦:ごうんじょうく)五陰盛苦とも書く)」の四つの苦しみを加えて八つの苦しみとなる。
『涅槃経』に、我と無我(悟り)の関係は、「乳」から「酪」が、「酪」から「生酥:しょうそ」が、「生酥」から「醍醐」が熟成精製されるのと同様である、と言う記述が出てくる。 「乳」から「醍醐」が生じるように、悟りにも経るべき段階があると教えているのだ。 「醍醐」は元々サンスクリット語で「空極の乳製品(チーズともバターオイルとも言われている)」を意味している。
お経の注釈書に出てくる「微塵を積みて山と成す」と言う言葉に依っている。 微塵とは極めて小さい単位の事。 何百年、何千年も前から今日あることを予測して地道に努力せよ、と言うのが本来の意味。
仏教では禅宗でよく使われる言葉で、「外に向かって求める心が無くなった悟りの境地」と言う意味で、「臨済禅師:りんざいぜんじ」が始めて使った。 何の執着心もなく、無事の境地に達した人こそ仏と同じ貴人であるという「無事是貴人」は禅宗の有名な言葉だ。
「仏頂」とは仏の頭頂から現れる仏頂尊勝の事。 仏が持っている幅広く奥深い知恵の総称だが、厳しく恐ろしい顔つきだったと言う。 ここから愛想の無い表情をこう呼ぶようになった。
「またそんな事を言って。仏の顔も三度までですよ!」というように、警告する時に使う。 「仏の顔も三度撫(な)づれば腹立つる」が本来の語源。 ちなみに顔を撫でると言う事は、相手を軽んじ馬鹿にする事を示す行為である。 参考:仏教を歩く(週間朝日百科)・他 |
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