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**スッタニパータ**
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スッタニパータとは、「 スッタ:縦糸を意味し、漢訳では経と表現される」。「 ニパータ:集り」という意味で、あわせて経集と訳されています。
この経集の言葉の素朴さから、お釈迦様の言葉に最も近いと言われており、仏教興生初期に編纂された最古の仏典のひとつとされています。

この経集は五品(ごほん)70経1149偈から成り立っており、第五品の序偈と結語を加えて全72経が纏められています。
大まかに内容を書き出して見ますと。

第一品(章):蛇の章 全12経
第二品(章):小品(小なる章) 全14経
第三品(章):大品(大いなる章) 全12経
第四品(章):義品・八偈品(八つの詩句の章)
第五品(章):彼岸道品(彼岸に至る道の章)全18節
となります。

これらの中でも、最古層と考えられているのが第四・第5章で、
他の章のような偈頌の形式が見られません。

【成立】

釈尊の年代論に関しては、南伝と北伝におよそ100年の差が認められています。
ここでは北伝の資料に基づき、釈尊入滅を紀元前383年とし、その後まもなく「第一結集】が行われ、更に100年〜110年後に「第二結集」が行われ、その時、教団が二つに分裂(初期分裂)したと考えられています。《雲井昭善:NHK宗教の時間参照》
これによって自然に考えた場合、「上座・大衆」と言う二派に分かれた紀元前270年頃には、南方上座部のパーリー聖典が成立していたと推察する事ができ、「スッタニパータ(経集)」は少なくともここに起源を持つと考えられます。
《雲井昭善:NHK宗教の時間参照》


スッタニパータに書かれているのは、難解な教えではなく、私達の生活に密着した視点から説かれた教えである事が大きな特徴だと思います。

釈尊の言葉に少しでも近づきたいと思われる方には、是非読んで頂きたい経集です。

★トピをご覧になる時は、「全て表示する」をクリックすれば書き込み順に表示されます。


《スッタニパータ・第149偈》
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:あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても守るように、
そのように、一切の生きとし生けるものどもに対しても、
無量の(慈しみの)こころを起こすべし。

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経典には「慈母」と言う言葉が多く見受けられます。
母は、大地のように種を宿し、命を育み、そして慈しみの心で見守ってくれる。
そう言う母の大きな愛を表した言葉だと思います。
この「大愛」でもって、全ての命に接する事を説かれた偈が、「慈経」と呼ばれる由縁ではないでしょうか。

私達人間は、他者の命を頂く事で漸く命を繋げる生き物である事を思うと、この慈しみの心を忘れて、生き物の命を無闇に貪り続ける事は避けなければいけないと思うのです。
お肉は美味しいです。
でも、屠殺場へ引いて行かれる牛や豚の姿を思うとき。
それを我が身として受け止めたとき。
美味美食がどれ程大きな罪過を作っているかと、恐ろしくなります。
「当たり前」ではなく、「命を頂ける」事への感謝の気持ちを込めて、どの命も大切に思い、大切に扱う謙虚な心を忘れたくはないものですね。

そう言う意味を込めて、食前は「頂きます!」、食後は「ご馳走様でした!」を、先ず大人から子供へ伝えてゆく事は、とても大切な事だと思うのです。

お宅の子供さんは、大きな声で「頂きます!」「ご馳走様!!」が言えますか?


《スッタニパータ・第804偈》
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:あぁ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。
たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

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ここでは、私達はいつかは必ず滅び去るものである事が明言されています。
どれ程、自分が可愛い、自分が愛おしい。。。と執着していても、自分をどれ程大切にしていても、「死」が逃れない事実であることが説かれているのです。

豊かな日本国において、美しく着飾り、美味美食を追求する事は容易い事かも知れません。
しかし、幾らそのようなものにお金をかけて、労力をかけても、いつかは全て滅び去ってしまう儚いものであると気づいた時、本当に価値あるものは何なのかが見えて来るのかもしれません。

上辺だけの楽しさや幸福を追い求めて、現代の私達は本当の「楽しみ」真実の「幸福」とは何かが見えなくなっているような気がします。
その心の貧しさが、現代のような悲惨な事故や事件を生じさせているとは考えられないでしょうか?

因果応報と言う言葉がありますが、個人が作る業は個人にだけに返ってゆくのではありません。
個人の業は、地域の業となり、社会の業となり、やがては世界の業となって、我々に返ってきます。
これを仏教では「共業:ぐうごう」と言います。
何の罪もない幼子の命が奪われていくのも、突き詰めて考えれば犯人だけのせいではないのですね。
全てに関して、「因」があり「縁」があって物事は生起しているのです。

「自分だけが正しい生き方をすればよい」と言う考え方ではなく「自分は勿論、身近な人と共に正しい生き方をする」と言う考え方にならなければ、いつまで経っても「共業」は消える事は無いのです。
他者の悪業は「対岸の火事ではない」と言う事を、しっかり肝に銘じなければいけないと思います。

《スッタニパータ・第73偈》
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慈しみ(=メッター:慈)と平静(ウペークハー:捨)とあわれみ(=カルナー:悲)と解脱と喜び(ムデイター:喜)とを(=喜びとの解脱を)時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のように独り歩め___〔犀角経〕

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・・・犀の角のように独り歩め・・・と言う有名な「犀角経」の一節です。
ここに説かれている「慈・悲・喜・捨」を、仏教では「四無量心」と呼び表しています。
仏教は「抜苦与楽:ばっくよらく」の宗教であるとも言いますように、「一切の有情(人々)は幸福であれ・・・」と、人々の利益や楽を与えようと欲する心(慈)。
或いは「ああ、実に(人々が)この苦しみから解脱するように・・・」と、相手の不利益と苦しみを除こうと欲する心(悲)。
更に「ああ、尊師たちは喜び、有情(人々)は喜んでいる。よいことだ。いいことだ。」と、利益と楽から離れないように欲する心(喜)。
そして、「(この世で)自分がなした業(行為)によって(その人の未来の姿が)知られるから。」と、苦楽に対して無関心となる心(捨)。
これらの四つの心を「四無量心:しむりょうしん」と言い、解脱への道を教え示しています。
後世になって、この四つは「慈悲:じひ」と「喜捨:きしゃ」の二つに分かれ、その場合の「喜捨」は「喜んで財物を施すること」「報償を求めないで施しをすること」と言う意味として伝えられてきました。

犀角経にあります、「犀の角のように独り歩め」と言うのは、当時のインドに生息していた犀は角が一本しかありませんでした。
そこから、「犀の角のように独り歩め」と言うのは、何ものにも執着することなく拘泥することなく、仏の教えを拠り所として自分自身を整えて、その自分を師として悟りを目指す事を教えているのです。

現代に当て嵌めると、「自立して善道を歩め」と言う意味と受け止めれば良いのではないでしょうか。
勿論、その「善道」とは「八正道」を指しています。


《スッタニパータ・863偈》
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「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と悪口とは愛し好むものにもとづいて起きる。
争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに悪口が起こる。」

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この短い詩偈の中に、人間の争いの原因を窺い知る事ができます。
先ず「あるもの」が介在し、それを巡って争いが生じます。
「あるもの」とは、「人」であり、「物」であり「財」なのですね。
それらが人間にとって「愛し好むもの」であるが故に、それらを欲しがり、或いはもの惜しみをする事から口論が生じ、やがて闘争へと発展してゆきます。
現代は社会も複雑化しており、この言葉をそのまま当て嵌める事はできないとしても、突き詰めてゆけば結局は「欲望」「執着」「慢心」等の煩悩から生じている事には変わりありません。

では、この「争い」から私達が得られるものは一体何なのでしょ
う。
それは「怒り」「恐れ」「悲しみ」「憂い」「憎悪」「怨み」・・・と言った苦しみだけではないでしょうか。

「他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわられて、怨みから免がれることができない。
《ダンマパダ・第291偈》

と書かれているように、失ったものも、得たものも、最終的には決して幸せにはなれない、と言う事なのですね。

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」
《ダンマパダ・第5偈》

真理の言葉と言われる「ダンマパダ」に書かれてありますように、争い傷つけられた人はいつまでもそれを忘れる事なく、相手を怨み、相手へ報復しょうと考えます。
報復が報復を呼び、それは果てしなく繰り返されてゆく事になります。

ここで視点を変えて「愛し好むもの」を先ず分かち合える、譲り合える事ができたならば、争いは生じることもなく、果てしない報復合戦を繰り返さなくても良いのですね。
「愛し好むもの」を分かち合う事に心が及ぶ事こそ、人が人として幸せな人生を歩んでゆける「智慧」なのではないでしょうか。


《スッタニパータ・第266偈》
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耐え忍ぶこと、ことばの優しいこと、諸々の(道の人:沙門・サマナ)に会うこと、適当な時に理法についての教えをきくこと、___これがこよなき幸せである。

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私達の思う「幸せ」とは懸け離れているように感じますが、これがお釈迦様の仰る「幸せ」なのです。

ここに書かれているのは「六波羅密行」によって培われ、鍛え上げられた「心」を養う事が、即ち人生の幸せの道であると教えています。
六波羅密行とは「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の六つの行の事で、原始仏教以来極めて重要な仏の教えとして伝えられています。
このような「堅固」な心であれば、苦界と言われるこの世間にあっても、常に心は平静であり、平安を保つ事ができるのですね。
心が平安であれば、それが本当の幸福なのだと、この偈は教えています。

私自身の考えですが、現代のように物が溢れかえり、お金を出せば大抵の物が手に入ってしまう世の中に居て、全てを我慢する・・・と言うのも、何か「苦行」のような気がします(笑)
お釈迦様が仰るように、「楽」を求めすぎるのもいけないけれど、必要以上に「苦」を求める事も間違っていると言う「中庸」の考え方が、ここでも活かされるような気がするのです。
自分の収入と支出のバランスを考え、ある程度無理のない範囲で欲しい物を手に入れる喜びも、私達凡俗の者が生きて行くには必要ではないでしょうか。
ただし、その「もの」に執着心を持ってしまっては「苦」の原因になることをよく理解しておく事は大切ですね。


《スッタニパータ・第773偈》
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未来、あるいはまた、過去について、(あれこれと)期待する者たち――あるいは、(現前する)これらの欲望(の対象)を、あるいは、以前(に見た欲望の対象)を、(貪りの思いで)渇望する者たち――彼ら、(潜在的な心の)欲求という縁から(生起した)生存(有)の快(よろこび)に結縛された者たちは、解脱し難く、まさに、他のもの(他者・他物)(を依り所とする)解脱は、(どこにも存在し)ない。

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凡俗である私達は、過去を振り返っては悔やみ、未来を思っては憂い、一時も心が安まる事はありません。
過去はいくら後悔しても戻る事はありませんし、明日の事をいくら心配しても、自分の思い通りになる事はないでしょう。
そんな不確かなものを思い煩う事が、如何に愚かであるか・・・
それに一刻も早く気づいて、「今のこの瞬間」をどのように生きれば良いのかを考える。
これがお釈迦様の言われている正しい生き方ではないでしょうか。

人間の欲望は限りなく「渇望」と言われますように、欲する物を手に入れた瞬間から、新たなものを欲するのですね。
まるで砂漠に水を撒くように、もっと、もっとと欲望は尽きる事がありません。

心が欲するままにしていれば、必ず身を滅ぼし、心を滅ぼす事に繋がります。
だから、この「心」の制御「コントロール」する事が非常に重要であります。
しかし、これは非常に困難な作業でもあります。
それは「自我」との闘いなのですから、この自我を抑えられるだけの強い精神を養わなければならないのですね。
それも、たった一度自己を制御して、それで良いのではなくて、生涯に渡って制御してゆかなければなりません。
元々欲望の塊であるこの肉体を持つ私達ですから、全く欲望を断ってしまうと命にも関わります。
そこで「少欲知足:しょうよくちそく」の教えが大切になってきます。
要するに「足る事を知る」心を養うのです。

今もニュースで某会長が背任行為で逮捕された事が報道されています。
この方は75歳だそうですね。
他にも「いい年齢」をして、欲に支配されてしまった為に、晩節を汚している著名人がなんと多い事でしょう。
それも、人から尊敬され、人を指導すべき人でありながら自らは欲望の虜となってしまっている・・・
本当に嘆かわしいですね。

日本では「腹八分目」と言う諺がありますね。
これは食べ物だけに限らず、何事も「八分目」で満足できるように「心を整える:自整」事を教えている諺です。
年齢を重ねれば重ねるほどに、私などは七分目・・・六分目で満足できるようになりたいものです。
そう思うと、私自身もまだまだ捨ててゆかねばならないものばかりです(笑)



《ヴィナヤ 1・3頁。「南伝」第3巻5〜6頁
  ウダーナ 10頁。「南伝」第23巻99頁》

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足ることを知り、真理(法)を聞き、真理を見るものの独居は楽しい。
世の人々に対し、怒り憎むことなく、生きとし生けるすべての生きものに対して、自制(セルフ・コントロール)することは楽しい。
世間に対する貪り・欲望を離れ、もろもろの欲望を超えることは楽しい。
「われが、われが」という慢心に打ち勝つことは、
けだし最上の楽しみである。

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この詩偈は、釈尊がブッダガヤーの菩提樹の下で成道後間もなく、釈尊自身の胸に溢れてきた思いを綴った詩と言われています。
一般的には、弟子達の質問に対してお釈迦様が説法される形式が多い中で、この詩偈は誰に対する説法でもない「無問自説:むもんじせつ」の教えとして知られています。
ここでは「少欲知足:しょうよくちそく」の生き方を心掛け、自己中心的な考えを排除して、生きとし生けるものたち全てに対して「自制:じせい」する事が、如何に楽しい生き方であるかが説かれています。

私達凡俗の者にとっては、欲望を抑え、自我を抑えて生きる事は、ある意味苦行のように思われるのですが、釈尊は「楽しい」と仰っているのですね。
何故なら、この苦界においては「もの」に「執着」する事も苦しみの原因となります。
更に「欲望の奴隷」となるのも、苦しみです。
その苦しみの根源となるものを排除すれば、後は自ずと「解放された自由自在な心」となって、「楽しい」日々を過ごす事ができる、と言う事なのです。
また、そう言う自由自在な心《心の平安》を得ると言う目標に向かって、心を制御《自己開墾》する事は最上の楽しみであるとも仰っているのです。

最近の若い女性は本当に綺麗ですね。
お化粧も上手だし、ファッション的にもとても素晴らしい感性を持っていらっしゃいます。
勿論男性だって負けてはいませんね(笑)
でも、いくらお化粧やファッションにお金をかけても、それらは諸行無常なのですから、時間と共に朽ち果てて行く儚いものなのです。
どんなに高価なお化粧品や美容整形で若返ったとしても、年齢が若返って命が永遠に続くわけではありません。
寧ろそのように「年齢」や「見掛け」に拘る心そのものが、苦しみなのですね。
そのような「刹那的な楽しさ」を求めるのではなく、自己開墾する事によって得られる「心の平安」こそ、私達が真に求めなければならない「楽しさ」であるかが、この詩偈によって釈尊の感興の言葉として説かれているのです。

表面を綺麗に着飾る事も良いですが、その半分でも良いですから内面に目を向ける「心のゆとり」が欲しい時代ですね。
そう言う意味でも、この詩偈はとても深い意味を私達に教えてくれているような気がします。

《スッタニパータ・第935偈》
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殺そうと争闘する人々を見よ。
武器(=自分の杖)を執(と)って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。
わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。


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どのような争いに関しても、突き詰めて考えて行けば「自己」の身を守る為の争いである事が解ります。
他人よりも良い思いをしたい、良い生活をしたい、幸せになりたい・・・
全て「自分」に対する偏愛から生じている欲求が根本にあり、「自分さえ良ければ良い」と言う自己本位な考えが元凶であります。
逆に考えれば、自己保身をしなければ争いが生じる事はないのですね。
何ものにも執着しない釈尊には、自己保身に汲々として争い、殺し合う人々の行為が如何に愚かで浅ましいものか、身に染みて感じておられたのかもしれません。

私の好きな法句経の一偈をご紹介致します。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。
これは永遠の真理である。
《ダンマパダ・第5偈》

相手が武器を執ったからと言って、自分も武器を執れば、争いは益々エスカレートしてゆき息むことはありません。
相手が武器を執っても、自分が武器を執らなければ、その争いはそれ以上エスカレートする事はないのです。
全ての人が心の武器を捨てたならば、きっとこの世界はもっと素晴らしいものになるかもしれないですね。
そのためには先ず私達ひとり一人が、自分の心から武器を捨て去る努力を続けてゆく事はとても大切なのです。
このように、釈尊の教えは全て「自分」に対しての「自制」の教えなのです。

* ここで言うところの武器とは「心の中の武器=攻撃心」を指しています。

 《スッタニパータ・第173偈》
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この世において誰が激流(暴流:ぼる)を渡るのでしょうか?
この世において誰が大海を渡るのでしょうか?
支えなく(=底なく)よるべ(=手がかり)のない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?       

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ここで譬喩されている「激流」は、まさしく私達が生きていく上で避けることのできない苦しみの事です。
仏教ではこの激流(暴流)を「欲暴流:よくぼる」「有暴流:うぼる」「見暴流:けんぼる」「無明暴流:むみょうぼる」の四つに分けて解釈しています。《相応部 4・175、257頁。南伝 第15巻 279,397頁》

* 欲暴流:欲望と言う激流
* 有暴流:生存と言う激流
* 見暴流:執見と言う激流
* 無明暴流:無知と言う激流

これらの激流に流され、底のない大海に沈んでしまうような事にならない為には、一体どうすれば良いのか・・・
この詩偈は、そう言った素朴な疑問を投げかけています。

その疑問に対する答えが次の偈文です。

常に戒を身に保ち、智慧あり、よく心を統一〈=定〉し、内省し、よく気をつけている〈=思念ある〉人こそが、渡りがたい激流〈=暴流〉を渡り得る。
《スッタニパータ・第174偈》
    
愛欲の想いを離れ、一切の結び目〈束縛〉を超え、歓楽による生存を滅しつくした人____、かれは深海のうちに沈むことがない。
《スッタニパータ・第175偈》

私達は「欲望に流され〈欲暴流〉苦しみの海を浮き沈みしながら〈有暴流〉それぞれの勝手な見識に基づいて生存している無知蒙昧な存在であります。
このまま激流に揉まれ流されてゆく先は、底のない「苦しみの大海」であると、この詩偈は教えています。

人間の欲望は際限がありませんから、その欲望の赴くままに流されてゆくと、苦しみからは決して逃れる事はできません。
また、この世間に「生きる」と言う事自体が苦しみであると考えるとき、何等かの支えや手がかりがあれば、それだけでも心が救われるような気がします。
そして、銘々が勝手な見識を主張しあって、一体全体何が真実〈真理〉であるかと言う事を見失って、本来歩むべき道を見失ってしまっているのが、現代の私達の姿かもしれません。

このような私達が、激流に流され苦しみの大海に沈まないようにする為に、釈尊は「戒・定・慧」の三学を説いて下さっています。
先ず「戒め」を守り、心を統一し・智慧を学ぶ、と言う事なのですが、ここで私個人の意見を少し述べさせて頂きますと、凡俗の私どもにとっての「戒」とは何か?と考えますと、それは大きく言えば法律を守る事であり、身近なものとしては「マナー」を心掛ける事であり、更には自分自身に日々課すべき「戒め」の事だと理解すれば良いのではないでしょうか。

「定:じょう」と聞くと、一般的には座禅や瞑想を思い浮かべますが、勿論そう言う時間を自分自身に課す事も重要である一方、現代社会においては、それを毎日行う事には少し無理があるかもしれません。
そこで私なりの「定」の解釈は、「今している事に対して、心を込める」と言う事です。
料理をしている時は料理に専念し、仕事をしている時は仕事に専念する、と言う事です。
そして、時間の余裕がある時に「座禅」や「瞑想」によって、自制〈自省〉する、と言う事を、この二年程は継続するように、自分自身に「課して」います。

そして「智慧」に関しては、現代では様々な書物や経典を簡単に入手する事ができるのですから、僧侶になると言う目標のある人は別として、一般人は「独学」で充分だと思っています。

そもそも、釈尊が伝えられた「仏教」は、「知識」を詰め込む事が目的ではありません。
「智慧」を得て、それを実践する事の方が大切であると思っています。
口先だけでどんなに難しい教理を述べていても、全く身についていない僧侶の方を時々見掛けますが、私としては本当に嘆かわしい事だと思っています。
本来の釈尊の教えとは、誰にでも理解でき、誰にでも実践する事ができる、ある意味「当たり前」の教えなのですね。
教理を学ぶ事が「難しい」のではなく、その「当たり前」を実践する事の方が余程難しいと言う事なのですね。

経典にもその事に関して次のように書かれています。

たとえためになること〈=仏の教え〉を数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。___
牛飼いが他人の牛を数えているように。
彼は修行者の部類には入らない。
《ダンマパダ・第19偈》

たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法に従って実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することのない人は、修行者の部類に入る。
《ダンマパダ・第20偈》



《中部 3・187頁 南伝 第11巻下 246頁》
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過去を追うべからず、未来を期待すべきでない。
およそ過ぎ去ったものは捨てられたもので、かつ未来はまだ至らず。
しかしかの現在の法をここかしこに観察し、
揺るがず、動ずることなくそれを了知して習得せよ。
今日なすべきことを熱心になせ。
誰か明日の死を知るべきや。
まこと、かの死神の大軍との戦いのないことはない。
昼夜に倦怠(けたい)なく、かく熱心正勤に住する人、
そのかれを実に賢善一夜、寂静者(じゃくじょうしゃ)・牟尼(むに)なりと説く。

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この偈は「一夜賢善経」と呼ばれる偈文で、釈尊が修行者に対して説かれた教えでありますが、在俗の私達にとっても大きな意味合いを持った教えであると思い、ここに掲載させて頂きます。

私もこの年齢になって、とかく昔日を懐かしむ時が多くなって参りました。
人間としての心情から申せば、それも極自然の心の動きなのかもしれませんが、釈尊は「過去は捨てられたもの」と仰っています。
どんなに懐かしみ、どれ程恋い焦がれようとも、過去はもう二度と戻っては来ないのですね。
ましてや過去の過ちにいつまでも拘り、どんなに後悔しようとも、過去に戻ってやり直すことはできないのです。

もし、過去に過ちを犯してしまったら、それでは一体どうすれば良いのでしょう。
私はこう思うのです。
過ちを悔い改める事はとても大切です。
しかし、それだけで終わっていてはいけないのですね。
そこから「何か」を学び取らなければならないと思うのです。
そして、「今、この瞬間」に活かすべき事は活かし、「今」を精一杯、正しく生きる事。
「明日」に活かすのではなく、「今」に活かすのです。
何故なら、私達にとって「明日」と言う日程不確かなものはないのですから。

「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
と親鸞上人は出家決意の心境を歌にしましたが、私達在俗の身にとっても、「明日」と言う日が果たして自分には訪れて来るのか、来ないのか・・・
それは誰にも解らないのです。

だからこそ「今、此処」において、最善の生き方をしなければならないと言うのが、この偈の大意なのですね。



《スッタニパータ・第937偈》
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世界(=世間)はどこも堅実ではない。
どの方角でもすべて動揺している。
わたくしは自分のよるべき住所(=すみか)を求めたのであるが、すでに[死や苦しみなどに]とりつかれていないところを見つけなかった。


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[生きとし生けるものは]終極においては違逆(=衝突)に会うのを見て、わたくしは不快になった。
またわたくしはその[生けるものどもの]心の中(=心臓)に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

《スッタニパータ・第938偈》

この[煩悩の]矢に射られた者は、あらゆる方角をかけめぐる(=輪廻転生)。
この矢を引き抜いたならば、[あちこちを]駆けめぐることもなく、沈むこともない。

《スッタニパータ・第939偈》

釈尊は、このようにすべての事象をありのままにご覧になって、「全ての生存するものは、生きるためにあちこちのたうち回り、衝突しあっている」と実感されました。
その原因は、私達の心臓を貫いている「煩悩の矢」である事を知見し、その矢によって苦しみ藻掻いている「全ての生存するもの」を見て、釈尊自身の心に「どうしょうもない程の不安」が湧き上がってきた、と告白されています。

私達は、自分の心臓に「煩悩の矢」が突き刺さっていて、それによって苦しみのたうち回っているとは思いもしないでしょう。
大抵の人は「苦しみは外からくるもの」と思い、苦しまない為には「相手や環境」を変わるように望みます。
厳しい上司がいる職場では、「この上司が居なくなればもっと仕事が楽しくなるのに。。。」と思ってしまいます。
口五月蠅い父親に対しては、もっと寛容な心になって欲しいと、相手が変わる事を願います。
要するに、「自分は正しいから変わらなくて良い」「相手が間違っているから、相手が変わらなければならない」と、つい自分の都合の良いように考えてしまうのです。

「自分の思い通りに全てをコントロールしたい。」との思いを、私達は無意識の中に持っているわけなのですね。
でも「世間」においては、自分の思い通りになる事は殆どありません。
それを頭では理解しているものの、「無明」と言う煩悩の矢に射られた心は気づけないのです。
だから、いつまでも苦しみから解放される事もなく、のたうち回っているのであって、その矢に気づいて引き抜く努力をしたならば、苦しみは自ずと消滅してゆくのである、と釈尊は仰っているのです。

苦しみを感じた時、先ず「自分の心臓に煩悩の矢が刺さっていないか」と自省し、刺さっていると感じたら、「自分自身を変える努力」をしてみましょう。
相手を変える事はできませんが、自分の心の持ち様を変える事は、ちょっと努力が必要ですが、不可能ではありません。
原因を外へ求めてゆくのでは、いつまで経っても苦しみは繰り返されるのです。
苦しみから解脱するには、自分の中の原因に気づく事がとても大切なのですね。

《スッタニパータ・第584偈》
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汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。
汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。
《スッタニパータ・第582偈》

泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。
ただ彼にはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。


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自ら自己を損ないながら、身は痩せて醜くなる。
そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。
嘆き悲しむのは無益である。
《スッタニパータ・第585偈》

ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図と異なったものとなる。
壊(やぶ)れて消え去るのは、このとおりである。
世のなりゆくさまを見よ。
《スッタニパータ・第588偈》

だから〈尊敬されるべき人=ブッダ〉の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
《スッタニパータ・第590偈》

人生においての一番の苦しみと言うのは、愛するものを「死」によって奪い去られてしまう苦しみではないでしょうか。
ここに紹介しました偈文は「矢経」とも言われ、注釈によります、あるひとりの在家信者が我が子を失い、悲嘆のあまりに七日間も食事を摂らずにいたそうです。
それを知った釈尊はその信者のもとへ出向いてゆき、彼の悲しみを除く為に説いた言葉と言われています。

いつの時代であろうとも、どこの国であろうとも、人として「愛するもの」を失った悲しみと言うのは悲痛なものであります。
しかし釈尊は敢えて「嘆き悲しみを去れ。」と言います。
「嘆き悲しむな!」と言うのではありません。
悲痛のあまりに嘆き悲しむのは致し方無いにしても、「いっときも早く、その悲しみから立ちあがれ!」と教えているように私は感じるのです。
いっときも早く悲しみから立ち直る為には、「命あるものは、すべて死を逃れられない」と言う真理を心に刻み付けておかなければならない・・・と言う釈尊の思いが、この矢経には込められているのではないでしょうか。

《スッタニパータ・第574偈》
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この世における人々の命は、定まった相〈すがた〉なく、どれだけ生きられるか解らない。惨〈いた〉ましく、短くて、苦悩をともなっている。


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特に最近、子供達の傷ましい事件が相次いでおります。
虐めをする者、また虐められる者。
一体、何故このような世の中になってしまったのでしょうか。
このような状況になって、今、私達「大人」は何をすれば良いのでしょうか。
何を子供達に伝えてゆけば良いのでしょうか。

以前に読んだ本の中で「言葉が乱れると国が乱れる。」と
言う言葉がありました。
確かに、ここ何十年かの間に「美しい言葉」と言うものを聞く機会が少なくなってきたように思います。
それに反して「キモイ・ウザイ・死ね・・・」などと言う醜悪な言葉が社会に氾濫してきております。
この原因のひとつとして、テレビや漫画、ゲームなどの影響がとても大きいと感じています。
特にゴールデンタイムに流れるお笑い番組では、平気で相手を罵ったり、殴ったりと言う場面が面白可笑しく放映されてもいます。
毎日のように、そのような番組を見て成長してきた子供達には、それらが無意識のうちに刷り込まれてゆく事の危険性を認識している大人がどれくらい居るのでしょう。
視聴率が上がれば何を放映しても良い、と言う大人の身勝手な考え方が垣間見えて仕方がありません。

「子供は親の背中を観て育つ」と言う言葉がありますが、家庭内だけではなく、社会においても同じ事が言えると思うのです。
戦後、「自由」だの「権利」だのと浮かれて生きて来た私の世代が育てて来た子供達。
確かに自由や権利を主張する事は、人として生きる上でとても重要な事かもしれません。
しかし、それだけではないはずです。
自由や権利がある変わりに、「義務」と「責任」も負わねばならない事を、私達大人はしっかりと子供へ伝えてきたでしょうか。
「フリーセックス」と言う言葉ばかりが先行して、それに伴う「義務・責任」をちゃんと教えてきたのでしょうか。
「発言の自由」があると共に、「自分が発言した言葉に対する義務・責任」がある事を教えてきたでしょうか。
全てに関して、都合の良い一方的な考え方しか教えて来てはいなかったでしょうか。

戦前や戦中のような、貧しく厳しい社会が良いと言うのではありませんが、豊かさや楽ばかりを追及するのも間違っていると思うのです。
そう考えると、ここでも釈尊が教えられた「中庸」の精神を、もう一度思い出さねばならないのではないでしょうか。

私達の人生は、本当に短いものです。
その上、生きている間には様々な苦悩が次々と襲ってきます。
決して、この世に生まれて来た事が「幸せ」だと言いきれない程、過酷な人生を歩まなければなりません。
そう言う「人生の厳しさ」と言うものを、しっかり子供達に教えられる親でありたい。
また、その厳しさがあるが故に、苦難を克服する「喜び」があると言う事を、身をもって教えてやれる大人でありたいと思います。

《スッタニパータ・第767偈》

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欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、
かれは、矢に射られたかのように、苦しむ。

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人が田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族その他いろいろの欲望を貪り求めると、
無力のように見えるもの「諸々の煩悩」がかれに打ち勝ち、危うい災難がかれをふみにじる。
それ故に苦しみがかれにつき従う。
あたかも壊れた舟に水が侵入するように。
《同・第769〜770偈》

私達が持つ様々な煩悩は仏教では「百八つ」あると言われています。
108つの数が正しいかどうかは解りませんが、要するに「沢山」あると考えれば良いと思います(笑)
原始経典によれば、その煩悩を大きく分けると「貪欲(とんよく):むさぼり」「瞋恚(しんに):怒り」「愚痴(ぐち):無知」の三つに分けられ、『三毒:さんどく』『三火』『三不善根』
等と称しています。
この三つの煩悩の中で最たるものが「貪欲:ラーガ」で、人はあらゆるものに執着して、飽くことなく貪り続ける存在であると言います。

釈尊は弟子達に「すべての事象は無常であり苦である、無我である。」と繰り返し説かれてきました。
それは「ものごとをありのままに観る:知見〈ちけん〉」事を教えているのですが、この知見〈如実知見:にょじつちけん〉〈如実智:にょじつち〉を欠いた状態が「無知=無明」の状態であると説かれているのです。
「貪り」「怒り」「無知」と言う、これら三毒を滅してゆく事が、即ち苦しみを滅っして、心に平安を取り戻す唯一の方法なのですね。

確かに、私達は普段「ものごとをありのままに見る」と言う事を忘れてしまっているような気がします。
特に自分自身の事になると、どうしても欠点を過小評価してしまう傾向があるのですね。
その反面、他人の欠点はとても気に障り、嫌悪し、憎しみに変わる・・・と言うのが、一般的な俗人の感情ではないでしょうか。
結局それが自分自身の苦しみの根源になり、不快な人生を送らざるを得ないのです。

自分の人生を、苦しみのない善き人生に変えられるのは、他者ではなく、社会でもなく、環境でもなく、ただ「自分自身の心の修め方」にあると言う事に気づかなくてはなりません。

【襤褸(らんる)】
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破れ果てた衣 ぼろ衣は自分の生涯のよう。

食は乞食をして間に合わせ 家は実に雑草だらけ。

月を見ては夜どおし口ずさみ 花に迷うて家にも帰らず。

ひとたび昔の寺を出てからは あやまってこんな愚者となる。

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良寛和尚は、自分の人生を「ぼろ衣」のようだと言います。
このような貧しさの中にいて、自らを愚者と言いつつも、 良寛和尚の心はいつも平安に満たされていた事は、彼の遺された歌からも感じ取る事ができるように思います。

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冬ごもり 春さりくれば 飯(いひ)乞ふと 草のいほりを
立ち出でて 里にい行(ゆ)けば たまほこの 道のちまたに
子どもらが 今を春べと 手まりつく ひふみよいむな
汝(な)がつけば 我(あ)はうたひ あがつけば なはうたひ
つきてうたひて 霞立つ 長き春日(はるひ)を 暮らしつるかも
《良寛和尚》

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無邪気に村の子供達と鞠つきをして遊ぶ良寛の微笑みは、三毒を消し去った後の穏やかな心境の顕れなのかもしれません。

《スッタニパータ・第773偈》

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欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、
解脱しがたい。

他人が解脱させてくれるのではないからである。

かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

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相談室には時々「人間は平等と言うけれど、全く不平等ではないか!」と言う非難めいた言葉が見られます。
裕福な家庭に生まれたものと貧しい家に生まれたもの。
美貌に生まれたものと、そうではないもの。
健康に恵まれたものと、生まれつき障害を持って生まれたもの。
これらの何処が一体平等と言えるのか・・・
そう言いたいのでしょうね。

私達一人ひとり環境上も肉体上も、全てにおいてそれぞれ違う人生を歩んでおります。
この表面上だけを見れば、確かに「この世は不平等だ!」と愚痴りたくもなるかもしれません。
しかし、更に突き詰めて考えてみますと、「四苦八苦」の苦しみは貧富も美醜も賢愚も・・・それらとは全く無関係に、命あるもの全てに課せられた苦しみである事に違いはありません。
一日24時間と言う時間の長さも、誰もに与えられた時間であります。
大自然界の恵みも、また厳しさも、誰もに与えられる試練であります。
このように考えると、相談者が言う「平等・不平等」の意識レベルが如何に低い次元で論じているかが解ります。

私達は、この世に生まれ出て来た瞬間から、全く違った「人生」と言う教材を与えられつつも、空極的には同じ条件下において「学ぶ機会」を与えて頂いているものなのですね。
それを「不平等」と感じるのは、その人自身の学びがまだまだ足りない・・・と言えるかもしれません。

このように、人生は「気付き」がとても大切であり、世間には「気付き」の材料が沢山溢れているにも関わらず、人はそれに気付く事が出来ずに苦しむのです。
ひとつ気付けば、それで完璧と言うものでもありません。
生涯に渡って「気付き」を得る事で、私達の魂は成長し続けるのですね。
それが「人生の最終目的」であると私は思うのです。

「解脱」とか「悟り」とか・・・私のような凡俗の者にはとても難解な境地ではありますが、このような「気付き」であれば、案外得る事も可能な気はしませんか?


《スッタニパータ・第70偈》

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妄執(=渇愛)の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、心をとどめ、
理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。


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《スッタニパータ・第73偈》

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慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、
世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

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原始経典に『独一静処 専精思惟(どくいつしょうじょ せんじょうしゆい)』という言葉があります。
「独り、静かな処で専ら瞑想・思惟する」と言う意味で、上にご紹介しています「犀角経」の教えに相通じるものがあります。

そもそも「解脱」と言うのは、自らが、自らの努力・精進によって得られる境地であり、決して他人に解脱をさせて貰う事ではありません。
故に、仏の教えと言うのはすべて「自己」と向かい合い、問いかけてゆく教えであります。
それを説いている偈が70偈であります。

それにより獲得した解脱の喜びは、その後から続く修行者は勿論、すべての人々にも与えられる喜びとなります。
それを説いているのが73偈にある「世間に背くことなく・・・」と言う言葉から伺い知る事ができます。

これまでも申して参りましたが、この器世間にあるものはすべて「帝網:たいもう」で繋がっておりますから、幾ら独りで教えを修め、悟りを得た「独覚:どっかく」であっても、世間に背いて生きる事はできません。
寧ろ、悟りを得た者であればこそ、尚更世間と真正面に向かい合い、衆生を救わんが為に、また独り励み努力しなければならないのですね。
所謂「自利・利他行」の実践を教えています。

私は「自利」も「利他」も、これは同一のものであると思っています。
自分を向上させる為には自分自身の学びも大切ですが、「利他行」によって得る智慧も大切な自分の学びであります。
仏陀の言葉にも「われ人と共に・・・」と言う言葉が度々見られますように、「人と共に学び、人と共に道を歩む」事が、ひとつの「行」であると考えられるのです。

では、その私達が目指すもの、指針とすべきものとは一体何なのでしょう。
一体何を拠り所にして生きてゆくべきなのでしょうか。
その答えの手掛かりとなるものが、仏陀の般涅槃を描いた「大第般涅槃経」においては「自灯明・法灯明」と言う言葉で表されています。

スッタニパータでは第501偈に、

自己を州〈しま:よりどころ〉として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる・・・略・・・

と言う一偈文が見受けられます。

自分自身を拠り所とでき得る人間に育て上げる事は、この苦界における得難い救い手を得る事になる、と言う事なのですね。

これこそ、私達が目指す「もの」であり、共に歩むべき「道」であると、仏陀は繰り返し説かれているのです。







私達人間は、富める者も貧しい者も、病んだ者も健やかなる者も、賢いものも愚かな者も・・・すべての者がこの「娑婆」と呼ばれる人間世界にあって、悲しんだり喜んだり、悩んだり楽しんだり、様々な思いを繰り返しながら生かされております。
このような娑婆世間を漢訳では「忍土=にんど」「忍界=にんかい」と言う訳語を与えておりました。
文字を見ても分かりますように、この娑婆世間は決して楽な世間ではありません。
寧ろ、耐え忍ぶこと、忍耐が絶対必要な世間であって、私達はこのような耐え忍ぶべき場所に「生かされている」と言う覚悟を決めなければなりません。
そのような厳しい世間に居ながらも、それぞれの幸福を追い求めつつ生きているのが、私達衆生なのですね。

では、その「それぞれの幸せ」とは、一体どのようなものであるべきなのか・・・
財産が多いこと?
美貌に恵まれていること?
高い地位につくこと?

原始経典には、次のような詩偈が見受けられます。

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健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、
ニルヴァーナ(ニッバーナ。安らぎ)は最上の楽しみである。

   (『ダンマパダ』第204偈)

世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、
安穏であること___これがこよなき幸せである。

   (『スッタニパータ』第268偈』
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ご覧のように、釈尊が説かれた教えでは「健康で、感謝する心を持ち、人から信頼され」ていれば、心はどのような事態が起ころうとも動揺することなく、憂いを抱くこともなく、苦しみや悩みと言う汚れからも離れており、それ故に安穏で居られる。
これこそが、この世では最上の幸福である・・・」と仰っています。

心が安穏でいられる事が「こよなき幸せ」であると感じる。
この心境に至るまでには、私自身も様々な経験や思いを重ねて来たからなのかもしれません。
「愛するもの」を持つ事は嬉しい事であり、また幸せな事でしょう。
しかし、その愛するものに執着すると、離れて行くことに憂い、苦しまなければなりません。
財産を愛して執着する事も、自分の美貌に執着する事も、地位や名誉に執着する事も・・・
すべて「執着」と言う心の汚れによって、苦の原因になりうるものなのでありますから、これらによって本当の「幸せ」を感じる事はできない、と言う事なのです。

この偈文は、本当の「幸せ」とは、周囲が満たされて感じるものではなく、「心」が満たされて感じるものである事に気づかされる詩偈だと思います。








私達はこの人間社会にあって、他者との関わり無くして生きて行くことはできません。
その為に最も大切なものは、相互の信頼関係をしっかりと築く事ではないでしょうか。
それは、家庭生活においても、あるいは職場や学校と言った団体生活の中でも同じです。
この信頼関係は、双方の理解と、お互いの人格を尊重しあう事によって得られるものであります。

仏教では、この人間生活を成り立たせる基本的姿勢として「知恩」「報恩(=感恩)」と言う教えを説いております。

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 尊敬と謙遜と満足と感謝(=知恩)と(適当な)時に教えを聞くこと、___これがこよなき幸せである。

 (『スッタニパータ』第265偈)


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スッタニパータにも、このように「恩を知り、感謝の気持ちを持ち、適当な時に正しい教えを聞く」、これがこの上ない幸せであると説かれています。

知恩とか報恩とか申しますと、何やら時代遅れの人情話を思い出される方もいらっしゃるかもしれませんが、人が人として生きる最低条件の一つとして、この「恩を知り、恩に報いる」と言う姿勢は、時代を問わず不可欠なものであります。
また、この「恩」と言うのは、相手や周囲に強制されて感じるものではなく、自分自身の心の底から沸々と湧き上がってくるものであります。
その、沸々と湧き上がってくる感謝の気持ちを感じられる心によって、純粋な「奉仕」の気持も生まれてくるように思います。

先に述べた「安穏」とした心で感じる幸せは、自分だけの幸せであり、それだけに止まる事無く、更には他者への感謝と奉仕の精神を持つ事で、他者も幸せになれるように勤め励むこと。
このような基本的な姿勢を持って、強い信頼で結ばれた「仲間」の中に居る事こそ、「最上の喜び」と言えるものではないでしょうか。








** 十二支縁起 **

ネーランジャラー(尼連禅)河の岸辺にある菩提樹の下で、釈尊は悟りを得られた後も七日間、結跏趺坐をしたままで解脱の楽しみを享受されておられました。
そして、悟ったばかりの縁起の真理を順・逆に思考されておりました。

(一)無明によって(二)行《人間の行為を形成する思力・潜在的形成力》がある
この行によって〈三〉識《識別作用・心》があり、識によって{四}名色《名前と形態=対象》がある。
名色によって(五)六処《六入=ろくにゅう 心と対象を結ぶ六つの領域で、眼・耳・鼻・舌・身・意の感官》があり、六処によって(六)触《=そく 心が対象と接触する》がある。
触によって(七)受《感受作用》があり、受によって(八)愛《渇愛、渇きに似た欲望・妄執》がある。
愛によって(九)取《執着》があり、取によって(十)有《=う 生存》があり、有によって(十一)生《出生・生まれること》があり、生によって(十二)老死《老い死にゆくこと》・愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生起する。

以上を『順観=じゅんかん』・流転の縁起と言います。

また、無明を余りなく滅すれば行の滅があり、行が滅すれば識の滅があり、識が滅すれば名色の滅があります。
更に名色が滅すれば六処の滅があり・・・

このようにして、逆に十二の縁起を順に滅してゆくことを「逆観=ぎゃくかん 還滅=げんめつの縁起」と言います。

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  実に禅定につとめ励む修行者にとって、もしもろもろの法が明らかになるとき、かれの疑いはすべて消滅してしまう。
あらゆるものには原因がある、ということをさとるから、と。

(『ヴィナヤ』1・1〜2頁。 「南伝」第3巻 1〜2頁)

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これらを簡潔にまとめますと、要するに無明があるから様々な苦しみがあり、その苦しみは「無明」を滅する事によって消滅してしまう、と言う事なのですね。
この「無明」とは、「四聖諦に対する無知」、四つの真理に対する無知が原因である、と言うのが、十二支縁起の基本姿勢であります。

 智慧によって聖(とうと)い理法がよく見られ、よく知られるというのはどういうことなのか。
家主(=居士)よ。
聖い弟子は縁起をよく思惟している。
このように、「これあるときかれあり、これなきときかれなし。
これ生ずるよりかれ生じ、これ滅するよりかれ滅す。」
すなわち、無明に縁(よ)って行あり、行に縁って識あり・・・
ないし・・・(生に縁って老死苦あり)。
このようにすべての蘊(あつまり)の集起がある。
しかし、無明の余りなき離貪・滅より行の滅がある。
行の滅より識の滅がある。
ないし・・・(生の滅より老死苦の滅がある。)

このように、すべての苦の蘊の滅がある。

(『相応部』2・70頁 「南伝」第13巻 102〜103頁)

この縁起説から、私達の存在も決して気紛れにあるのではなく、計り知れない程の因縁が積み重なっってきた結果であり、またこの結果が因となり様々な縁を受けて「結果」へと繋がってゆくものであると識ることができるのです。

私も娘の頃には一人前に反抗期というものがありました(笑)
「頼んで生んで貰ったんじゃない!!」
親に何かと叱られる度に、私はこういって親を困らせてきました。
まったくもって、お恥ずかしい事です。

今の子供達の中にも、同じような言葉を吐く人もおられるかもしれませんね。
私なんかが偉そうに言う立場にはありませんが、最近私はこのように考えるのです。

私達は「誰も頼んで生まれて来させて頂いたわけじゃない。」のは当然の事。
この「苦しみの世界」である娑婆に、誰が望んで生まれて来たいと言うでしょう。
それでも、私達は否応なくこの娑婆に『生まれて来さされた』のです。
「苦界に降りて、未熟な魂をもっと磨きあげて来い!!」と誰かに言われたのかもしれませんね(笑)

要するに、この娑婆に生まれ出て来た「因」は、自分自身の中にあると言うことなのですね。
そしてこの因を滅する事こそが、この娑婆世界に生み出された者の課題であるとしっかり認識した時、人は「善道」を歩んでゆく事の大切さが解るのではないでしょうか。








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