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原始経典を読む

(参考・・・友松圓諦著 阿含経入門 【講談社学術文庫】
**阿含経は仏教の根幹**
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と、著者友松氏は語ります。
「仏教というものが釈尊のお説きになったもの、少なくとも、仏教の考えが釈尊のお考えから出たものであるとするならば、この阿含経こそが、一本の樹木にたとえていってみれば、その幹であり、その根でさえあるのです。」・・・阿含経入門より抜粋

これ程重要な経典である「阿含経」が、一般的に普及していないのは何故なのか。
友松氏は「大切な跡継ぎがどこかに隠されていたようなものです。」と例えて、「この嫡男があらわれる事を好まぬ連中が沢山にあったから・・・」だと述べています。
嫡男の出現を恐れる連中が、この嫡男をわざと世の中の正面に引き出す事を食い止めていたようなもの」で、「最初こそ、そういう意図的な行動に出ましたが、それが後代になりますと、いつの間にか、無意識的にもこれを排斥し、これを問題の外へ追いやろうとしていた・・・」と謂う事だそうです。

しかし、この阿含経の中に書かれているものが全て釈尊の言動をありのままに伝えているかと謂うと、やはりそれも完全ではありません。
釈尊没後に、多くの弟子達によって粉飾された箇所があるのは否定できないと思いますが、それであっても、やはりここに書かれている釈尊の当時の言葉と釈尊の行いや人柄は、他のどの経典よりも一番真実に近いものであると友松氏は仰りたかったのではないかと思います。

宗教に拘らない静寂としては、こういう「真実の釈尊象」に近い阿含経はとても興味をそそられます。
そう言う意味で、皆様も一緒にこの阿含経を読んで頂けたらとても嬉しく思います。
時間の有るときに書き進めて参りますので、どうかお付き合い下さいね(*^_^*)


阿含経を語る

**その一 我は悪法に勝てり**
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勝者はかくのごとく有り            勝者如是有
謂く 諸々の漏(まよい)の尽を得たり     謂得諸漏尽
われは諸々の悪法をやぶれり          我害諸悪法
優陀(うだ)よ、ゆえにわれは勝てり      優陀故我勝


(中阿含 巻五十六、大正1.七七七、国訳一切経、阿含部六.三〇六)


>> 釈尊はある日、羅摩と名づくるバラモンの家で、多くの弟子達の為にしんみりと自分の出家以来の過ぎこし日を述懐せられた。

「わしはまだその当時は血気さかりだった。身体も美しく、頭髪もみどり色をしていた。
そして、もうこの地上のありとあらゆる快楽というものを嘗め尽くしたように思っていた。
美しい装飾を身体にあでやかに身につけて、山に遊び、野に戯れたよ。
ちょうどわしの二十九の年だった。
思い切ってわしは出家を決心した。
その時、もちろんわしの両親、親族はみな啼哭(ていこく)して悲しんではくれた。
しかしわしの心は至信堅固であった。

みどりの黒髪をすりおとして、いままでとは違った黄色の貧しい衣を身につけた時、わしの心はまっしぐらに、この家を捨てて学道に精進しょうという気持ちで一杯であった。
そして、わが本願の成就するまで、如何なる事ありとも、この身体、この口意を清浄に保とうと決心した。

もちろん、その本願とは、自分のこの人生における老病死、憂悲苦悩というものについて正しい諦観をもち、それから解脱しきって、病んで病まず、老いて老いず、死して死なざる底(てい)の覚悟をもち、そこに無病、無老、無死、無愁、無憂、無シヤク、無穢汚(むえお)、無上安穏なる涅槃を求めようとしたのだ・・・

この後、釈尊は何人かの外道の元で様々な苦行を経験した末に、それらを「ただ悪戯に肉体を苦しめるだけのもの・・・」として捨て去り、ひとり象頭山の南方にある斯那(しな)と呼ぶ所へ出掛けてゆき、丁度道を求める者にとって愛楽すべき土地を見つけ、その辺の草をかき集めて一本の大きな樹の下で結跏趺坐をし、やがてその場所で無上なる正尽覚を得た。
釈尊はその喜びを、かって同じ苦行をしていた頃の五人の仲間に知らせたいと思って、はるばると鹿野苑へ向かって歩いて行った。

その途中、異学の優陀という者が向こうからやってきて、釈尊にこう呼びかけた。
「賢者なるゴータマよ、何という素晴らしいお顔つきですか。何という極妙(ごくみょう)な形色(すがた)ですか。どこからどこまで、とても清浄に見えます。
賢者ゴータマよ、あなたの師匠は誰ですか、誰について道をお学びになりましたか。誰の法を信じたのですか。」

こう聞かれた釈尊が、優陀に答えて言った言葉が冒頭の偈です。
自信満々に答えた釈尊に対して、優陀は「賢者ゴータマよ、ひょっとしたらそんな事もあるかもしれますまい。」と、不信、懐疑の言葉を残して往ってしまった。

こうして釈尊は鹿野苑へ赴き、五人のかっての仲間に会って初転法輪を転じる事になる経緯が書かれています。

これは「羅摩経」の概要を大まかに説明させて頂いたのですが、釈尊の出家当時の様子や悟りを得た後の喜び、人々に教えを広めるに当たっての不安、そして梵天勧請、やがて自信に満ち溢れて仲間の元を訪れる釈尊の姿がイキイキと描かれています。


ご存知のように、釈尊はある小さな国の王(最近は官吏ではないかとも)の一人子で、大切に育てられ、何不自由なく暮らしていた方なのですね。
と言っても、これまで言われていたような豪奢な生活ではなかったようですが。

釈尊曰く、「地上のあらゆる快楽を嘗め尽くし・・・」はたと気づいたのが「生老病死」と謂う、命ある全てのものに平等に与えられた苦しみでありました。
釈尊はその苦しみと対峙するために、全てのものを投げ捨てて出家してしまったのですね。
ここが我々凡夫と違うところで、釈尊たる所以ではないかと思ったりします。

その時の心の変化というか、有りようといいますか。
それらがこの羅摩経によって垣間見る事ができるような気がします。

**その二 諸仏は人に出ず**
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諸々の仏は人に出たり             諸仏出於人
父の名は真浄と曰い              父名曰真浄
母は極清妙となづく              母名極清妙
豪族、刹利種なり               豪族刹利種

死の径は極めて困(くるし)となせども     死径為極困
すべて尊卑を観せず              都不観尊卑
諸仏も尚まぬかれざるなり           諸仏尚不免
況んやまた余の凡俗をや            況復余凡俗

(増一阿含、巻第十八、大正二.六三七 国訳一切経、阿含部八.三〇二)

この聖句は釈尊が八〇歳を越されたある日の言葉である。
齢八〇を越した釈尊の身辺は、決して幸福ではありませんでした。
故郷は亡ぼされ、有識なる愛弟子達(舎利仏、目蓮)は師匠に先立って亡くなっています。

>>ある日のこと、阿難が仏所に近づき、いつものように釈尊の足をさすりました。
そして、その御足に尊敬の意を込めてキッスしたのです。
その時、阿難は驚いてこういいました。
「世尊よ、いかなるゆえでございましょうか。まるでもととは違って、、お身体がしわだらけになり、お力も抜けてしまっています。」
訳してみれば少し変なセリフに聞こえますが、要するに阿難は、釈尊の顔つきや身体の様子がいつもと違って弱々しく、益々老い弱っている様子に驚いたのでしょう。
これに対して、釈尊は齢八〇も超えれば、昔の身体と違って全身の皮肉がかくの如く緩むのは当然である、と答えられています。
要するに、八〇歳を超えた肉体がこうして衰弱するのは当然であると仰ったのでしょう。

その日、コーサラ国王に食事の供養を受けた釈尊は、食事が済んでから王にこう謂われました。
「世尊よ、自分は聞いています。もろもろの仏というものの身体は金剛石のように堅固のもので、いささかも、年齢や病気によって左右せられることがないと聞いています。
しかし、お見受けして何かおやつれのように見えますが、やはり老病死というような自然の移り変わりに支配なされるのでしょうか。」

その問いに対する答えが、冒頭の聖句です。

私はこの部分がとても好きなんですね。
どんなに大悟して立派な人格者であろうと、私たちと同じように老病死は避けられません。
人間仏陀である釈尊もまた、私たちと同じように老病死に苦しめられる一人の人間なのですね。
同じ老病死という苦しみを背負う釈尊だから、私は彼がとても身近に感じられ、そして、尊敬する事ができるのです。
彼が苦しみも何も経験すること無く、ただ私たち凡俗に向かって説く教えだけでは、これ程多くの人に尊敬されることはなかったのではないでしょうか。

友松氏の言葉をお借りするならば、「多くの宗教はいつも上から、人間以上のものからスタートをきっている。ないしは、天上から宇宙大から物語を始めている。
そこに宗教たる宗教の所以があると仰っています。
しかし、仏教は人間仏陀が様々な修行、苦行を修めて到達した境地を教え広められたものなのです。
だから、同じ私たち凡夫も、修行や精進をすれば「仏陀」になれる可能性がある。
「仏性」が備わっている、という事なのですね。
絶対になれないものに憧れるのを悪だとは思いませんが、「自分が神様になれる。」なんて到底思えません。
でも、釈尊のように精進すれば「仏」になれると思えば、「やれる所までやってみようか!!」って、僅かな可能性に希望を膨らませる事も可能なんですね。
アテにならない神頼みよりも、自分をレベルアップさせて自分を頼りとする方が、私は現実的なように思います。

友松氏も「仏陀は人間であり、人間に出てきたものである。」「仏陀はやはりある人間でしかない。普通の人間が心身に磨きをかけ、捨てるべきをすて、離れるべきをはなれ、脱却すべきものを解脱しきったところに開かれる境地なのである。」と仰っています。

少なくとも、阿含経に見る仏教とは人間仏陀の教えであり、生身の人間を離れたところに位置するものを崇め奉る教えではないように思います。
近年「葬式仏教」とか、「堕落した仏教」などと巷で囁かれていますが、長い歴史の中で、本来の仏教が歪めて伝えられてきている事は、決して否めない事実ではないでしょうか。

**その三 世間法(せけんぽう)**
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世人は卑下の業をなして、種々に、財を求めて活命す。
しかして巨(おお)いなる富を得るなり。
世の人みな知る。
世の人の知るところの如く、われもまたかくの如く説くなり、ゆえんはいかにや。
われをして世の人とことなしむるなかれ。

世人為卑下業  種種求財活命  而得巨富  世人皆知如世人之所知
我亦如是説  所以者何 莫令我異於世人


(雑阿含、巻第二、大正二.八)

これは、釈尊がある日独り言のように謂われた言葉である。
世間の人は「茶碗」とか「湯飲み」とか「お猪口」と、色々名前を言えば、それが何であるか、何をするものであるかという事は、誰でもその通りに理解する。
釈尊も世人の一人として、その通りに理解する、と仰っているのです。
世間のあらゆる事を、世人が見聞覚知しているように、釈尊もその通りに見聞覚知している。
だから、自分は決して世間に通じない、世間の人々が考えも及ばない事を説いているのではない、と仰っているのですね。

ここはとても重要だと思います。
私たちは、「仏陀」「世尊」と称して釈尊を天上へと押し上げてしまい、世間法などまるで通用しないものであるかと思い込んでいますが、釈尊とて「お天気が良いですね。」と言えば、私たちと同じように、同じ意味で理解される。
決して超人間的な存在ではないのであるから「われをして世の人とことなしむるなかれ。」と仰りたいのです。
「世間法」とは、私たち世人が自知、自覚してい用いる共通の言葉、共通の内容、共通の意味あいを持つ物事を言います。
これを、釈尊も自知、自覚して人のために分別して顕示し、説いていらっしゃるのです。

「自分をして世事を語らしめよ、世人と異なった取り扱いをするなかれ、と言った釈尊をば、仏教協会が発展伸張してくると、無理にも世間から引きずり出し、わざと出世間という霞たなびく神話の世界に押し上げてしまったのである。」・・・友松氏

私もそうでしたが、「仏教」=難しい、堅苦しい、難解・・・
そう言う印象で、仏教から遠ざかってしまう人がどれ程多くいらっしゃるかと考えますと、本当に残念であり、勿体ない事だと思います。
仏教とは、私たち世人の生きる道標、人生の羅針盤である事を、もっともっと多くの人に知って頂きたいと思います。

**我は衆を領せず**
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仏、阿難に告げたまわく、
「衆僧は我に於いて須(もち)いる所あらんや。 若し自ら我は衆僧を持し、
我は衆僧を摂(おさ)むと言わば、この人こそ衆に於いて教令あるべし。
如来は、我は衆を持し、我は衆僧を摂むとは言わざるなり。
豈、当(まさ)に衆に於いて教令あらんや。」

仏告阿難 衆僧於我有所須耶 若有自言我持衆僧 我摂衆僧 斯人於衆応有教令 
如来不言 我持於衆 我摂於衆僧 豈当於衆有教令乎


(長阿含経、巻第十二、大正一.一五、国訳一切経、阿含部七.六八)

仏陀の最後の旅である。
一行がべーサリーの懐かしい町を後ろにして、竹林叢に向かった。
ちょうど、道路は跋祗(ばっじ)からこの竹林へずっと続いているのである。
この村で、釈尊とその弟子の大衆は有名なバラモンの供養招待を受けた。
その当時、この地方一帯はひどい飢饉で、物価は非常に高くなっていた。
したがって、なかなか乞食の成績もよろしくなかった。
大衆は食べ物にも事欠くようにみえたので、アーナンダをして園内の弟子達を集めさせて言われました。
「この地方はひどい飢饉だから乞食もなかなか容易ではない。
与える者も辛かろうし、受ける者も辛い。
おまえ達はどうかそれぞれ部隊を分けて、お互いに縁者をたよって、べーサリーや跋祗国に往って、そこでこの安居をするがいい。そうすれば物に事欠くような事はあるまい。
わしはアーナンダとふたりだけで、この竹林に止住して安居しょうと思う。」

やがてふたりになった釈尊は、この夏安居中に病を得て体中に酷い痛みを感じられました。
「今こんなにひどい痛みが襲って来たのに、多くの弟子達はみんな出掛けて行ってしまった後だ。
もしこのまま涅槃(おわり)をとってしまうのは、自分としてはよろしくないことである。
どうしても自分は意識をしっかり持って精勤自力して寿命を留めなければならない。」

そんな釈尊の姿を見た阿難は、心配で心配で堪らなくなり、思わず呟いた。
「もしもの事があったらどうなるんだろう。自分はとにかく、今の弟子の大衆がいったいもしもの時にはどうなるんだろう。そうだ、さいわい、世尊はまだ滅度(おわり)をおとりにならない。世間の目はまだほろんでいない。大法はなくなっていない。
どうか世尊のご存生中になんとか衆弟子にそれぞれ然るべき教令をうかがっておきたいものだ。
どうして何かのおさとしがないのだろうか。」

この時、釈尊が言われた言葉が前出の言葉であります。
「弟子達は今更私に何の用事があるのかね。言うべき事はみんな言い、聞かせるべき事はみんな聞かせたつもりだ。だからわしには今になって何も改めて言って聞かせておきたい事はない。
それに第一、考えてみるがいい。もしこの世間にこんな事を言う人間があったらどうだね。
『わしがこの仲間を統領している。弟子達を摂めているのはこのわしだ。』こんな事を考えもし、言っている人だったら、それこそいざ、臨終となって何とか遺言もし、訓戒も与えねばなるまい。
ところが、わしはそんな事を考えも言った事もない。
してみれば、このわしに今になって何の訓戒を弟子達に与える必要があろうかね・・・」

更にこの後、「釈尊は自分の説くべき法は内も外もすっかり説き終わった。
更に添えるべき言葉も、もはやない。」と仰って、最後に「自灯明、法灯明」の教えを説かれたのです。

これは有名な「遊行経」と名づける釈尊の最後の旅行記の一節です。
静寂庵にも「涅槃経」として掲載してありますので、興味を持たれた方は是非ご覧下さい。
とても感動させられる経典ですよ。

兎に角、釈尊自身は多くの弟子を統領している、自分が摂めている、とは思われていなかったのですね。
それでも沢山の弟子達が釈尊を慕って、付き従っていたのでしょう。
それはやはり釈尊の人柄ではなかったかと思われます。

『自灯明、法灯明』の教え、と言うのは、友松氏曰く、「釈尊の意見によればこの世にたよるべきものが二つである。これを『二燈』とも言っている。それは『この自分』と『法』とである。法を離れた自分は、往々にして邪な寄辺となる。自分を忘れた『法』は、ただ空疎なる概念にすぎない
自分自身を陶冶してゆくところに『法』の意味を達見し、『法』たる所以を知る事ができる。
この二燈を措きて暗い人生を灯してくれるものはない。仏教徒の帰依すべきものはまことにこの二つにすぎない。」と述べられています。

更に「しからずして、今日、日本仏教徒がともすれば、不法なる物的要求を仏陀に祈り、仏陀の前に不如法なる生活を許さるべしとするがごとき、一部の信仰が仏教の名の下にもたれていることは、この聖句によって強く反省さるべきであろう。」との言葉を、ここで付け足させて頂きます。



**瞻視病者(せんしびょうしゃ)**
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設(も)しわれ及び過去の           設有供養我
諸仏を供養するものあらば           及過去諸仏
我に施すの福徳は               施我之福徳
病を(み)るに異るなし           病而無異

(増一阿含 巻第四十、大正二.七六七、国訳一切経、阿含部九.三〇八)

釈尊が王舎城の竹園に五百人の弟子達と止住していられた時の事である。
ちょうど一人の比丘が市内のどこかで疾病に罹って非常に苦しんでいた。
臥したっきりで大小の用足しにも起止する力もなかった。
相悪く、ひとりの仲間の比丘も彼を瞻視(みと)る者がなかったので、夜昼、心に世尊の御名を口ずさんでいた。
あるときには「どうして世尊がこの自分の困倅(くるしみ)を気づいて下さらないのか。」とかこったことさえあった。

虫が知らせたのであろうか、釈尊は弟子達を連れてあちらこちらの諸房住処を訪問、案行しょうとされた。
はからずも、釈尊はこの病比丘の止住している僧房にまわってゆかれた。
そのことに気づいた彼は起きようとしたが、自由のきかない病体はどうする事もできなかった。
「止めよ、止めよ、比丘、自分で動転してはいけない。わしにはちゃんと座るものがあるから、自分で座るよ。ときに、おまえの所には誰も看病人がいないのかね。」
こうした釈尊の気さくな言葉に、病比丘は恐る恐る申し上げた。
「いえ、別段に誰もいません。」
「ちょっと聞くが、おまえは昔まだ病気をせぬ時に仲間の病人を問訊したことがあろうね。」
「いえ、往ったことがありません。」
「それはいけない。お互いに病気の時に問訊、し合わないようでは正しく法がわかっているとは言えない。だから互いに、善利(よろしき)というものがないのだ。まぁ、それはいい。
比丘よ、おまえは決して心配なさるな。少しも困ることのないように世話をしたり、面倒を見させるからね。」

こういわれた釈尊の言葉には、溢れるような慈愛と共に、強い決心の色が伺われたのである。
「世間でわしのことを人中の独歩だなどと褒めすぎている。しかし多少でも人に言われる以上、それだけの事ができないでどうしょうか。いっさいの病人のみとりのできないわけがどこにあろうか。
どうか、寄辺なき者には救護者となってやろうし、盲目者には本当の眼目を与えて、色々の病人を救ってやりたい。」
釈尊は病比丘の不浄をさっさっと取り除き、新しい敷布と取り替えてやられた。
傍の弟子達は、釈尊の手を遮って自分達がこれに代わろうとした。
その時、釈尊は毅然として言われた。
「おまえたちはしばらく手を引いていておくれ。私は自分のなし得る力の限度と、ときの果てをちゃんとしっているつもりだ。これしきの事がなんであろうか。私は今更のように修業時代の自分の事を思い出す。達しょうとして、どうしても達し得られない時代のもだえを思い出す。
自分の身体、自分の全生命をも投げ出してしまおうと思った事が何度あったろうか。
貧しい人々に対して、食うものに悩む生物に対して、自分は死んでも、その菩薩の大行に生きようと思った事が幾たびであったろうか。
今日(こんにち)はおかげで、何かなしに達すべきところに達したように思っている。
このひとりの病比丘の世話ぐらいが何のことであろう。
どうしてこのひとりの病人を見捨てておけるものか。」
そう言いながら、釈尊はその辺りを掃除したり、病比丘を助け起こして浄水で沐浴させてから、床の上につけて、手ずから食べ物をさずけて世話をしてやられた。


お釈迦様はこの後、物静かに、病気のよってきたるところ、人間自体の根本的な病気のあること、その病気の治し方について懇切に物語られたので、かの病比丘は病気の原本をつかみとり、いつの間にか穏やかな気持ちに到達する事ができたのである。

やがて釈尊はその住房から立ち去られたが、多くの弟子達を一所に集めさせて、次のようなお説教をされた。

「おまえたちは本気で道をいそしんでいてくれてると思っている。決して国王とか、盗賊とかを恐れて出家したのではないと思っている。道を求める真剣な心持ちと、いったんこうと思い詰めた仏道に信心堅固である以上は、おたがい弟子仲間に自ずから、なごやかな、ひとつになった気持ちがでてくるに違いない。

ひとりの師をともにしている。同一な水、同一な乳を飲んでいるという気持ちになっている以上、病気になったときに互いに看護しあわぬという事は考えられない事であろう。
どうか、今後はたがいに、代わるがわる病気の時には世話をしたり、世話になるがいい。
自分に弟子がない比丘は、仲間の中から順番に看病人をきめるがいい。
この地上におよそどんな功徳になる事があるといっても、病人の面倒を看るほどすぐれたものはない。なんとも抵抗しがたいほどな病苦と闘っている病人に、些少なりとも看護することは何にたとえようもない人生の尊い光景だ。
ひとりの無名の比丘をどうかいたわってやっておくれ。
私の病気のとき、みんながよく世話をしてくれるが、私を看護すると思って、たがいに病比丘の世話をしてもらいたい、
私の世話をしているのと同じ事だ。同じ功徳だと思う。」

釈尊は、こういわれた後に冒頭の聖句を口にせられた。

「多くの人々はわしに何くれとなく世話をしたり、供養を惜しまずしてくれる。まことに有り難い事である。また、過去にあらわれたもうたところの多くの聖者への供養も尊い事に思ってはいる。
しかし、病人の看護をすること、額がぐっしょり汗で濡れている病人のか細い腕を静かにさすってあげる事の尊さは、それは私に供養の志を運んでくれるのと少しも違うものではない。
私に運ぶほどの志があったら、むしろ、悩み苦しんでいる人々を救ってあげて欲しい。」


悟りを得た釈尊が、病気で苦悩している弟子を手厚く看護してあげた事は、驚くべき事ではなく寧ろ当たり前過ぎる程当たり前の逸話であると思います。
返って、この病比丘を見て見ぬ振りをして、他の弟子比丘に世話を押し付けてしまう釈尊であったなら、私はその方が驚きです。

私がこの聖句を取り上げたのは、「思いやり」とか「慈悲」に対するお釈迦様の考えが、とても解りやすく説かれているからです。
お釈迦様が病に倒れた時は、弟子達は先を競ってお世話をします。
しかし、無名の比丘が病に倒れても、だれも彼を心配し、彼の世話をしょうとする者はいません。
お釈迦様は「私を看護すると思って、こういう無名の比丘をも看護してやって欲しい。それは、私に供養する事と同じである。」と仰っているのですね。
これを仏教では「回向」と言う言葉で表します。
仲間が病比丘を看護する事で、釈尊自身も供養され、お互いに福徳を積む事ができると言う事を仰りたかったのではないでしょうか。

常々、親孝行をしたいと願う子供がいるとします。
でも、その子は他の兄弟姉妹とは非情に仲が悪い。
いつも大好きな親を独り占めにしょうと、他の子供達と争っています。
彼がどんなに高価な物を親に贈ろうとも、どれ程親が喜んでくれるように尽くそうとも、これでは本当の親孝行にはなりません。
本当の親孝行とは、兄弟姉妹が相睦まじく、助け合い、支え合って和やかに日々を過ごしてくれる事ではないでしょうか。
私たち一人ひとりが、相睦み合い、助け合い、支え合って穏やかな人生を送れるような世界を築く事こそ、私たち生きとし生けるものを生み育んでくれる「親であるもの」への勤めであり、最高の親孝行だと思うのです。

そう言う事を、この聖句は語りかけてくれているような気がします。



**一切行無常**
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古昔の長竹山                 古昔長竹山
低弥羅の村邑                 低弥羅村邑
次ぎに朋迦山となづく             次名朋迦山
阿毘迦聚落(むら)              阿毘迦聚落
宿波羅首山                  宿波羅首山
聚落を赤馬となづく              聚落名赤馬
今の毘富羅山                 今毘富羅山
国を摩竭陀(まがだ)となづく         国名摩竭陀
名山悉く磨滅し                名山悉磨滅
その人悉く没亡せん              其人悉没亡
諸仏は般涅槃し                諸仏般涅槃
有るものはつきざるなし            有者無不尽
一切の行(つくられたるもの)は無常      一切行無常
悉くみな生滅の法なり             悉皆生滅法
生あればつきざるなし             有生無不尽
ただ寂滅を楽となす              唯寂滅為楽


(雑阿含、巻第三十四、大正二.二四三)

釈尊が王舎城の毘富羅山の側にいられた時であった。
弟子達に次のような説教をされた事がある。
「いっさいの出来上がったもの、すべての現象というものは無常、不恒、不安、変易(うつりかわり)の法である。
なに一つだって、いつまでもそのままで立ち止まっているものはなく、一つだってたよりになるものはない。
ほんとうにものの実相ということを考えたら、みんな不安なものばかりである。

だから、いっさいの『行(つくられたるもの)』をあてにしてはいけない。
願いをかけたり、たよったりするものではない。
『これはこのままではいないぞ』と、何事によらず『厭離(おんり)』という気持ちを養わなければいけない。
そうすれば、「もの」にひっかからない。縛られることがなくなる。
そこで、そのものに触れていながら、そのまま解脱を求めたのしむことができるようになる。

諸比丘よ、おまえたちは知るまいけれども、この毘富羅山はその昔は長竹山とよばれて、その山の周囲に人々が住居して低弥羅という大きな町を形成していた事がある。
ところが今日(こんにち)ではどうだ。長竹山という名字さえも忘れられ、低弥羅の住民たちもみんな亡びてしまったではないか。
その隆盛な時分に、その町民がどうして、今日のごとき亡滅のすがたを想定しえたろうか。

だから、何ものでも、出来上がったものというものはいつかは亡びるものだ。
無常、不恒、不安、変易の法である。
だからみんなもきょう目の前にうつる「すがた」にだまされてはいけない。
その「すがた」をこっちで見破ってゆかなければならない。
そして、それにとらわれないようにする事が肝要だ。
その当時にいられたひとりの仏陀もほどなく般涅槃してしまっている。みんな変易(へんにゃく)してしまうものだ。

その後、いつの間にか同じこの山は朋迦山と人が呼ぶようになり、阿毘迦という村落がまわりにでき、ひとりの仏陀も出現したがまたいつの間にか亡びてしまい、そののち、また、同じこの山を宿波羅首山とよび、山麓に赤馬とよぶ大きな村邑まででき、またひとりの仏陀があらわれたけれども、この地名も村名もいつの間にか人に忘れられてしまうほど荒廃に委せてしまったのである。

さて、比丘等よ、今日(こんにち)はこの山を毘富羅山とよび、そのまわりには人民がすんで、人よんでマガダ国としている。
そして国人は非常に繁栄して、いつまでも変わりのないようにさえ思える。
わしもこの国において仏陀の境をえた。
しかし、比丘等よ、この山名もまた久しからずして磨滅し、このマガダ国人も亡没してしまうであろう。また、そういうわしも久しからずして般涅槃をしてしまうことであろう。

かのごとく、諸行はまことに無常であり、不恒、不安、変易の法である。
みんなはよろしく、現前の事物について、いつも、厭離するように修行せねばならぬ。
そうして、現前の法にまよわされることなく、つねにそれから解脱するように心がけなくてはいけない。」

こうした散文の後に、釈尊は前記の詩偈を述べられている。

仏教の重要な教えのひとつに、この「諸行無常」の教えがあります。
この世のものは全てが無常で、時とともに移り変わってゆくのであるから、それぞれのものに心をとらわれたり、執着してはいけない、と言う教えです。
物事に心がとらわれたり、執着心を起こす事は、苦しみの原因になると仰っているのです。
なにものにも心を引っかける事無く、水がサラサラと流れるように生きてゆく事が安楽な生き方であることを、このように丁寧に解りやすく教えて下さっているのです。



**不一向説**
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われ一向にこれを説かず。
何の故をもってといえば、われは一向にこれを説かざるはこれ義に相応せず。
これ法に相応せず、梵行の本に非ず、智に趣かうz、涅槃におもむかず。
このゆえに、われ一向にこれを説かざるなり。


我不一向説此 以何等故 我不一向説此 此非義相応 非法相応 非梵行本 
不趣智不趣覚 不趣涅槃 是故我不一向説


(中阿含、巻第六〇、大正一.八〇五、国訳一切経、阿含部六.三八九)

釈尊の弟子、鬘童子は釈尊の説明に強い不満を感じていた。
何故ならば、世間というのは有情であるか、有情でないか、世間というものは底があるか、ないか、命がすなわち身体か、命というものは身体から離れてあるものか、如来というものに終わりがあるか、ないか、終わりと不終とがあるのか、そのどちらでもないというのか、こうした重大な問題についての釈尊の態度が甚だ気に入らなかったからである。

釈尊はこうした見解について「捨置(しゃち)」「除却(じょきゃく)」して、「ことごとく通説しない」のが不満であった。
釈尊はこうした考え方をどうでもいい問題として、ほうりだしておかれ、まるで問題になさらないのである。

鬘童子はおおいにこの事を不満不足に思って、とうていそんな事では我慢できなかったし、そんな不徹底な態度を好まず、なんとか、はっきりしたい気持ちで一杯であった。

そこで、鬘童子は決心したのである。
もしまんいち、釈尊が相変わらず煮え切らない態度で一向(ひたむき)にこれはこうだと言い切らないようだったら、もう修行なんかは投げ出してしまって、寧ろ釈尊の不徹底な態度をなじろうと決心した。
あるいは、さいわいに釈尊が一向(はっきり)、これだけは本当であり、真諦(まこと)であって、ほかの事はみんな虚妄の言葉だと言い切ってくれるなら、そのときこそ釈尊に従って梵行を修め、学ぼうと決心したのである。

こうして鬘童子は釈尊の元へ行き、自分の思うままに申し上げた。
釈尊はその質問を聞きながら考えた。
可哀想に、彼はすっかり出家本来の面目を忘れてしまったのだ。
彼が出家した動機と目的とを忘れ、ひどい方面に脱線してしまったことに気づかれたので、開き直って彼を「のめしつけて」しまわれた。
「おまえはいったい、前のような、そうした、くだらない問題を解決するために出家し、私に従って修行しにきたのではあるまい。」

鬘童子は釈尊の言葉に打たれてしまって、すっかりしょげてしまい、低頭黙然、失弁無言の情態であった。

そこで釈尊はかの有名な「毒矢の喩え」を説き聞かせて、「人生の煩悶には何等関わりのない、そう言うくだらない事で議論をしても、何も益する事にはならず、精神生活の根本とはならない。
そうした用も無き、あてども無き理屈をこね回したところで、人生を益するところの智には到達せず、ましてや悟りには入れず、実行的でもなく、効果的でもないから、ついに涅槃の安立つ(あんりゅう)に趣むくものではない。
だから、こんなことは決して、これが本当で、あとはみんな嘘だというような一向説はしないのだ。
一向(ひたむきに)説けば用もなき反対論が起こり、そしてお互いになにものをも益するところがないからである。
と言ったからとて、何事によらず、いいかげんに捨置、除却して、煮え切らぬものにしておこうというのではない。
前の議論は不可説であるから説かないのである。
説くべき事はどしどし説くのがわしの態度だ。
一向(ひたむき)に、明瞭に、断乎として説くべき事はどんどん説くつもりである。

それなら、何がわしによって一向(ひたむき)に説かるべきことであるかと言えば、四つの真理、つまり四諦、八正道である。
この人生というものは全体、一体としては苦しみだということ、その原因は人間の執着しょうとする迷い、この苦しみを絶滅するためには、八つの正道があるということ、この法こそはわしは一向(ひたむき)に主張するつもりだ。
というわけは、この四つの真理は理屈にも合い、真理にも沿い、第一、この考えによって精神生活が樹立されるからである。
この四つの真理が解りさえすれば、智に達し、覚に達し、涅槃に趣向することができるからである。」


これは箭喩経(せんゆきょう)の概略を紹介したものであります。
鬘童子の思いは、私たち凡俗の者なら誰でも一度は考えたり悩んだりする思いと同じものではないでしょうか。
そう言う問題に対して、釈尊は毅然と「人生には何等用も無きこと・・・」と一蹴してしまいます。
無老、無病、無死、無憂、無シャクを目指す者に、このような愚問をあれこれと論議することこそ迷いではないか・・・

人生においても、他にもこれと似たような問題が多々生じて参ります。
その時に、このお釈迦様の言葉を思い出し、 今、何をすべきか、何を考えるべきか、心をどの方法へ向けるべきかを一向(ひたむき)に考える事、それはとても大切な事なのではないでしょうか。




**自己を整える**
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欲求にもとづいての快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。
他人が解脱させてくれるのではないからである。
彼らは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望、または過去の欲望を貪る
       『スッタニパータ』第773偈
自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。
かれは他人に悩まされることなく、また何びとも悩まさない。
諸々の賢者は、かれを『聖者』であると知る。
       『スッタニパータ』第216偈
身のはたらき(身業)、口のはたらき(口業)、心のはたらき(意業)において、自戒による制御をもって自らを制御し、身、あるいは口、あるいは心で殺しなどの悪を行わない人は、青年時代でも中年時代でも、または老年時代でもいつでも悪を行わない。
何故なら、自らを制御していたから。
そういう人は、何びとにも悩まされず、また悩まさない。
そういう人は賢者、聖者である。
     『パラマッタジョーティカー』U・269頁
自己こそ自分の主である。
他人がどうして(自分)の主であろうか?
自己をよく整えたならば、得難き主を得る。
      『ダンマパダ』第160偈
戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
      『ダンマパダ』第103偈
アーナンダよ。
この世で自らを島(州)とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島(州)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
      『長部』2・1頁 「南伝」第7巻68頁
アーナンダよ。
修行者たちは、このわたくしに何を期待するのであるか。
わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。
アーナンダよ。
わたくは、もう老い朽ち、齢を重ね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。
喩えば、古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによって動いているのだ。
       『長部』2・100頁 「南伝」第7巻67〜68頁
**犀の角のごとく**
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出家と呼ばれるゆえに一人であり、
伴(つれ)がないという意味で一人であり、
渇愛を捨てているので一人であり、
専一に煩悩を離れているので一人であり、
一人で辟支仏の覚をさとった人というので一人である。
       『パラマッタジョーティカー』U・64頁
妄執(=渇愛)の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、心をとどめ、理法を明らかに知り、自制して、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
         『スッタニパータ』第70偈

慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
         『同』第73偈
**人生の目的**
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最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることの方がすぐれている。

       『ダンマパダ』第115偈
足ることを知り、真理(法)を聞き、真理を見る者の独居は楽しい。
世の人々に対し、怒り憎むことなく、生きとし生ける全ての生きものに対して、自制(セルフコントロール)することは楽しい。
世間に対する貪り、欲望を離れ、
もろもろの欲望を超えることは楽しい。
       『ヴィナヤ』1・3頁「南伝」 第3巻5〜6頁
       『ウダーナ』10頁 「南伝」 99頁
**よりどころ**
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アッタ・ディーパというのは、大海のうちにおける島のように、自らを島(よりどころ)として確立してあれ。
アッタ・サラナ(自帰依)というのは、自らの趣むくところであれかし。
決して、他のものを趣むくところとする勿れ。
      『スマンガラヴィラーシニー』548頁
アーナンダよ。
今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らをよりどころとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
       『長部』2・101頁「南伝」第7巻69頁
**四念所観(しねんしょかん)**
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アーナンダよ。
ここに修行僧は、身体について身体を、感受について感受を、心について心を、法(諸々の事象)については法を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
       『長部』2・100頁「南伝」第7巻68頁
**心の田を耕す**
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ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う___車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
      『ダンマパダ』第1偈
**三学(戒・定・慧**
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我れ年(齢)二十九にして
出家して善き道を求めた。
スパッダ(最後の仏弟子)よ。
我れ成仏して、今に已に五十年なり。
戒・定・智慧を行じ、
独処にあって思惟す。
今、法の要を説く。
此の他に沙門無し。
      『大正蔵』第1巻25頁中
明らかな智慧のない人には精神の安定統一(=定)が無い。
精神の安定統一していない人には、明らかな智慧が無い。
精神の安定統一と明らかな智慧とが備わっている人こそ、
すでにニルヴァーナ(=涅槃)の近くにいる。
      『ダンマパダ』第372偈

智慧と戒と寂静に依りて舎利仏の如く、彼岸に到れる比丘は最勝者なるべし。
___略___
      『相応部』1・34頁「南伝」第12巻47頁
智慧ある人、戒に住し心と智慧とを修め熱心にして慎み深き比丘は、この結髪(=心の束縛である妄執)を解きほごさん。
      『同』1・13頁「南伝」第12巻19頁
戒とともにあまねく修められた定は、結果も大きく利益も大きい。
定とともにあまねく修められた慧は、結果も大きく利益も大きい。
慧とともにあまねく修められた心は、愛欲の煩悩、生存の欲望、見解に対する欲望、無知の煩悩というすべての煩悩から解脱する。
      『長部』2・81頁「南伝」第7巻40頁
**現実直視**
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過去を追うべからず。未来を期待するべきでない。
およそ過ぎ去ったものは捨てられたもので、かつ未来はまだ至らず。
しかし、かの現在の法をここかしこに観察し、
揺るがず動ずることなくそれを了知して習得せよ。
今日、まさになすべきことを熱心になせ。誰か明日の死を知るべきや。
まこと、かの死神の大軍との戦いのないことはない。
昼夜に倦怠なく、かく熱心に正勤に住する人、そのかれを実に賢善一夜、寂静者、牟尼なりと説く。
      『中部』3・187頁「南伝」第11下、246頁
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