第一章
しかしながら、仏陀晩年のこの当時はまだインド統一はできておらず、マガダのアジャセ王が北方のヴァッジー国を滅ぼそうとして、ガンジス河南岸のパータリ村に城砦を築いていました。**大いなる涅槃への旅立ち** ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆ 王舎城を立つ 王舎城の霊鷲山に住しておられた仏陀は、ふと故郷への旅を思い立たれました。 既に成仏して以来四十余年の歳月が流れ、その間を中インドの各地を巡歴しつつ、多くの人々を教え導いて来られたのですが、七十九歳の高齢となった今は、もはやその尊い役目も終わりに近づいてきている事を感じられたのでしょうか。 当時の中インドの中央には、西から東に向けて大河ガンジス河が流れています。 この河の南方の広大な領域がアジャセ王が統治しているマガダ国で、その王都が王舎城です。 マガダ国の更に南方にはヴィンドヤ山脈が聳え、これによりマガダは南インドと隔てられています。 反対にマガダ国の北方を見てみますと、ガンジス河を越えた北岸地方はヴァッジー国で、その首都はヴェーサリーです。 そのヴァッジー国の西方には、これもまた広大なコーサラ国があります。 コーサラの首都は舎衛城と言って、かなりインドの北方に位置している為に暑熱が厳しくはありません。 この舎衛城には有名な祇園精舎がありました。 仏陀はこの祇園精舎をとても愛されていまして、雨期の雨安期をここで過ごされる事が多かったようです。 コーサラ国の王は波斯匿王「(はしのくおう)、またの名をプラセーナ・ジット」でしたが、仏陀の晩年にはその王も亡くなり、王子の瑠璃王(ヴィドゥーダバ)が跡を継いでいました。 しかしこの瑠璃王はとても暴虐な王で、後にはシャカ族を滅ぼしてしまいます。 彼はあまりにも暴虐だったために民心を失い、やがてマガダの国王アジャセに滅ぼされてしまうのです。 仏陀の生まれ育ったシャカ国はコーサラの北東に位置する小国で、当時はコーサラの属国でありました。 首都はカピラヴァスツですが、ネパール国内に入っています。 コーサラ国から南方に下がってガンジス河を越えると、ウデーナ王が治めるヴァンサ国があります。 首都はコーサンビーであります。 このように、仏陀が巡歴を重ねておられた当時の中インドでは、マガダ・ヴァッジー・コーサラ・ヴァンサの四大国が拮抗して栄えておりました。 中でもマガダ国が一番の勢力を持った大国で、しかもアジャセ王は優れた君主でありました。 アジャセ王は、まず北方のヴァッジー国を滅ぼし、次いでコーサラとヴァンサを滅ぼして中インドを平定し、マガダの王統を立てました。 これがインドにおける統一国家としての最初で、その後マウリヤ王朝が現れ、中インドのみならず北インドから南インドを統一し、インド全体に君臨する国家ができました。 このマウリヤ王朝に、紀元前三世紀アショーカ王が現れます。 アショーカ王は、インド不世出の明君と言われた王で、後年仏陀の教えに帰依し、仏教の教団を援助した王としてとても有名な王です。 アショーカ王によって、仏教はインド全体に急速に広められていったと言っても過言ではないでしょう。 アジャセ王は、ヴァッジーを討伐した方が良いのかどうか決心しかねており、行雨(ヴァッサカーラ)大臣を使いに立てて仏陀の助言を求める事にしました。 それに対しての仏陀の答えは、「ヴァッジー族がしばしば会議を行い、よく団結し、和合し、なすべき義務をよく果たし、みだりに法律を改めず、老人を敬いその意見を重んじ、婦女や子供を暴力で連れ去るようなことをせず、ヴァッジー族の祖先の廟を敬い、宗教者を尊敬する」など、ヴァッジー族の美点を多く挙げて、更にヴァッジー国の強大なることを示して、間接的に戦争の不可なることを諭しました。 仏陀はこれに関連して、弟子達にも次のように告げられました。 即ち、仏弟子の教団が常に和合し、しばしば集会し、話し合いによって事を決し、先輩を敬い、教団の規則をよく守り、規則をみだりに変えず、相互に信頼し、慙愧があり、教えを聞く事を喜び、修行に精進するならば、教団に繁栄は期待せられ、衰亡はないであろう、と説かれたのです。 |
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◆ 旅立ち 意を決した仏陀は、弟子の阿難を共に連れて北を指して王舎城を出発されました。 まずアンバラティカーに行き、そこの王の園林に逗留し、次はナーランダ村に行きました。 ナーランダーは後年五世紀になって仏教の大寺院が建立されましたが、当時は広々とした農村地帯でありました。 仏陀はパーヴァーリカのマンゴーの林に止住されました。 このとき舎利弗が訪ねてきて、仏陀の比類ない美徳を讃嘆しました。 その次に仏陀はパータリ村に行きました。 ここはガンジス河に沿っており、後にはパータリプトラと呼ばれる大都市になり、アショーカ王の都城として栄えるのですが、仏陀が行かれた時はまだ寂れた寒村で、行雨とスニーダと言う二人のマガダの大臣が人々を指揮して、ガンジス河の河岸に城砦を築いておりました。 仏陀はここでガンジス河を渡り、対岸のヴァッジー国へと行きました。 ガンジス河の北岸にあった村はコーティ村と言い、そこから更にナーディカ村を通ってヴェーサリー市に到着しました。 王舎城を出てからも通る村々において仏陀は、集まってきた村人達や随従している弟子達に対してそれぞれに適した法話をなし、聴者を励まし、鼓舞し、喜ばしめられたのでした。 やがて仏陀と随従する弟子達はヴェーサリーにやってきて、遊女アンバパーリーの園林に止住されました。 このようにしばしば園林に止住されるのは、、インドでは雨期以外殆ど雨が降らないので屋外に宿る事が可能だったからです。 遊女アンバパーリは、仏陀が自分の園林に止住されていることを知り、大変喜びました。 そして、美しい乗り物を装備して園林へと急ぎました。 乗り物が通れなくなったところで彼女は車を降り、徒歩で仏陀の傍へと近づいてゆきました。 そして、仏陀に対して心を込めて敬礼し、一方に座しました。 仏陀は座したアンバパーリーに対して法話を説かれ、彼女を教え示し、訓戒し、鼓舞し、彼女の心を満足させました。 アンバパーリーは、仏陀の教えに励まされ、心は喜びで満ち溢れ、尊い師にこう告げました。 「尊い師よ、師は仏弟子達とともに、明日、私の家で食事の供養をお受け下さい。」 それを聞いた仏陀は、沈黙をもってこの申し出をお受けになりました。 アンバパーリーは夜も明けないうちから食事の用意をして、美味しい柔らかい食物、かたい食べ物を沢山作り、手ずから仏陀を上首とする仏弟子達に、満足するまで差し上げました。 やがて食事が終わると、喜びに溢れた彼女は自分の園林を仏陀や仏弟子達の教団へ献じました。 仏陀は快くこの申し出もお受けになり、やがて次の村を目指して出発なさいました。 ◆ 竹林寺 竹林村へ到着した丁度その時、雨期が始まりました。 インドでは雨期が四ヶ月間続き、この期間は毎日スコール性の強い雨が降ります。 野原には草木が繁茂し、毒蛇や毒虫なども横行する上に、河川も増水します。 それゆえ、この雨期の期間は生き物を殺傷しますし、大層危険でもあります。 これらの理由によって、仏陀は雨期の三ヶ月間、一ヶ所に定住して旅行をしない「雨安居」の制度を設けられていました。 この時も雨期が始まりましたので、弟子達に「それぞれ縁故者を頼って宿所を見つけ、三ヶ月の雨安居に入るように。」と命じられました。 仏陀はこのように、一所に留まらない遊行生活を続けておられます。 定まった家も持たずに旅から旅へと遊行して歩く生活は、とても不便で苦しいものであったと思われます。 しかし、このような苦しい生活に堪えて旅を続ける事こそ、仏陀の目的であり、修行であったわけなのですが、雨安居の三ヶ月の間は、仏陀も一ヶ所に留まって、一人瞑想をして日々を過ごされる事が多かったようです。 竹林村にて教団を一時解散し、仏陀もいつものように雨安居の生活を始めておられたある日のこと。 仏陀に恐ろしい病気が起こり、死に近いような激痛が生じました。 それでも仏陀は意思を強固に持って正しい思惟を失わないようにして、その激痛に堪えておられました。 「私が持者にも知らせず、修行者たちにも別れを告げないで涅槃に入ることは、私にとってふさわしくない。私は心を励まし、意思を強く持ってこの病苦に堪え、寿命の力をとどめて住することにしょう。」 このように考えられた仏陀は、自ら心を励まし、その病苦に堪え、寿命の力をとどめて住しておられました。 この堅固な気持ちからか、やがてその病気は消滅して回復してゆきました。 久しぶりに仏陀は住居の外へ出て、住居の傍らに用意されていた座席に腰をおろしました。 持者の阿難は、仏陀のその姿を見て、静かに傍へ近づいて敬礼をし、一方に座して、次のように申し上げました。 「尊い師よ、ご機嫌うるわしくお見受けします。病気がよくなられたようにお見受けします。 尊い師のご病気が心配で私は方角も解らなくなり、道理もわからなくなりました。 しかし『尊い師が修行僧の教団に関して、何も言い残さないで涅槃に入られることはないであろう。』と考えて、いささか心を安じておりました。」 阿難の言葉を聞いて仏陀は答えられました。 「それでは修行僧の教団は私に対して何を期待するのか。 私は内外の隔てなく教えを説いてきた。 阿難よ、如来の法には、何ものかを弟子に隠すような教団の握拳(秘密の教え)は無い。 『私は修行僧の教団を指導しょう』とか、あるいは「教団の修行僧達は私を頼っている』と、このように考える者こそ、修行僧の教団に関して何事かを語るであろう。 しかし、阿難よ、如来は『私は修行僧の教団を指導しょう。』とか、『修行僧の教団は私を頼っている。』と、このように思うことはない。 それゆえ、如来は修行僧の教団に関して、何を語ることがあろうか。 阿難よ、今や私は老い、衰え、高齢となり、人生の終わりに達し、老衰した。 私の齢は八十になった。 たとえば古い車が皮紐で修理されて動くように、惟(おも)うに私の体も、いわば皮紐の助けによっていくのである。 しかし阿難よ、如来が、心に一切の相を考えることがなく、一つ一つの感受を滅することによって、『相をもたない心の統一』(瞑想』に安住するとき、如来の体は安楽であるのである。 それゆえに阿難よ、自己を島として住し、自己を帰依処として住せよ。他を帰依処とせざれ。 法を島として住し、法を帰依処として住せよ。他を帰依処とせざれ。」 と述べられ、弟子達が涅槃に入ることの間もない仏陀のみを、頼りとしていることの非を諭されました。 即ち、自己を拠り所とし、法を拠り所にせよ、と言う「自灯明・法灯明」の教えを述べられたのです。 ◆ 寿行を断つ お釈迦様は阿難を伴って托鉢の為にヴェーサーリー市を訪れ、食事を済ませてから 「阿難よ、チャーパーラー廟へ行こう、そこで食後の休息をしよう。坐具を持っていきなさい。」と言われました。 阿難は「かしこまりました、尊い師よ。」と答えて、坐具を持ち、お釈迦様の後に従いチャーパーラー廟へゆきました。 そして、阿難が設けた座処にお釈迦様が座られてこう言われました。 「阿難よ、ヴェーサーリーは楽しいところだ。ウデーナ廟も楽しいところだ。チャーパーラー廟も楽しいところだ。 阿難よ、誰でも*四神足を完全に修習した人は、一劫この世に住することができる。如来は四神足を完全に修行したから、もし欲するならば、一劫この世に住することができるのである。」 しかし、阿難にはお釈迦様のこの言葉の意味が理解できませんでした。 その為、ただちに「それならば、お釈迦様はこの世に一劫住して下さい。」とお願いしなかったのです。 お釈迦様は、この世に苦しんでいる人々を救うために、少しでも長くこの世に住していようと思い、「もし欲するならば一劫住することができる。」と仰りたかったのですが、阿難にはその真意をくみ取ることができませんでした。 そこでお釈迦様は三度繰り返し先の言葉を述べられたのですが、阿難には反応がありませんでした。 そこでお釈迦様は 「阿難よ、もうさがってもよろしい。」 と言われ、阿難を遠ざけられました。 そこへマーラ(悪魔)が近づいて来て、お釈迦様にこう囁きました。 「尊い師よ、いまこそ涅槃にお入りなさい。いまこそ尊い師が涅槃に入られる時です。かって尊い師は『マーラよ、私の男性の修行僧達が賢明であって、法を保ち、法のごとく実行し、法を解説し、法を説示するまでは、私は涅槃に入らない。』と仰いましたが、いまや尊い師の男性修行僧は、言われるとおりになりました。同様に、尊い師の女性の修行僧、男性の在家信者、女性の在家信者が『法を保ち、法のごとく実行し、法を解説し、法を説示するまでは涅槃に入らない。』と言われましたが、すべてはそのようになりました。 また尊い師は、『マーラよ、私の清純な修行が完成し栄え、世間によく知られ、ゆきわたり、人々に広く説かれるまでは、涅槃に入らない。』と言われましたが、しかしすべてはそのようになりました。 いまや、尊い師は般涅槃にお入り下さい。いまこそ尊い師が涅槃に入られる時です。」 このようにマーラに言われて、お釈迦様は答えました。 「マーラよ、心配するな。久しからずして如来は般涅槃に入るであろう。これより三月後に如来は般涅槃に入るであろう。」 このように、チャーパーラー廟においてお釈迦様は、もうこの世にとどまる必要がなくなったと考えて、三月後に涅槃に入る事を約束されたのです。 これは、お釈迦様がはっきりと自覚を持って、ご自分の寿命の元になる力(寿行)を捨てたのです。 この時、お釈迦様が寿行を捨て去った事に対して、天地は六種に震動し、恐ろしい地震が起こりました。 人々は恐れ、身の毛がよだち、天の太鼓も破裂しました。 阿難は驚いてお釈迦様の元へ駆け寄り、地震の原因をたずねました。 お釈迦様は、このような地震がある原因には八つある、と言われて、それぞれを説明しました。 八つ目の原因として、如来が正しい自覚をもって、自己の寿行を捨する時である、と答えられたのです。 そして、「このチャーパーラー廟で寿行を捨したから、三月後には如来の般涅槃があるであろう。」と告げられたのです。 お釈迦様の言葉を聞いた阿難はビックリして、そして懇願しました。 「尊い師よ、尊い師はどうかこの世に一劫住してください。人々の利益のために、人々の幸福のために、世間をあわれむために、神がみと人間との利益のために、幸福のために、どうかこの世に*一劫とどまってください。」 しかし、お釈迦様は「いまはそのようなことを願ってはならない。そのような願いをする時ではない。」と、阿難の願いを退けられました。 それでも、阿難は二度、三度と懇願しましたが、その願いは聞き届けられることなく、お釈迦様の入涅槃は決まってしまいました。 悲しみに打ちひしがれる阿難に、お釈迦様はこう仰いました。 「しかし阿難よ、私はかって告げなかったであろうか。「愛しく、好めるものといえども、生別し、死別し、死してのち境界を異にする。」と。 阿難よ、生じたもの、つくられたるもの、壊れる性質をもつものが、実に破壊しないようにあれ、と言うことがどうしてあり得ようや。こういう道理は存在しない。 阿難よ、この肉体は如来によって捨てられた、投げ出された、放棄された。 寿命のもとになる力も捨てられた。 如来ははっきりと断言した。「久しからずして如来の般涅槃はあるであろう、三月後に如来は般涅槃に入るであろう。」と。 如来が一度断言したことを、再び取り消すということはあり得ない。」 そして、お釈迦様は阿難に命じて、ヴェーサーリー付近に住していた修行僧たちを、すべてヴエーサーリー市の市民会館(大林重閣講堂)に集められ、集合した修行僧たちにお釈迦様は種々の法話をされました。 そして、「汝らは、世間の人々の利益と幸福のために、これらの教えを世の中に宣布せよ。」と言われ、 「いざ修行僧たちよ、私はいまお前たちに告げよう。すべて形あるものは、壊れるものである。 諸行は無常である。怠らないで、修行の目的を達せよ。久しからずして如来の般涅槃はあるであろう。 三月後に、如来は般涅槃に入るであろう。」 「私の齢は熟した。 私の寿命は少ない。 汝等を捨てて、私はいくであろう。 私は、自己に帰依することをなしとげた。 修行僧たちは怠ることなく、正しい自覚をもち、よく戒をたもて。 思惟によりて、よく心を統一し、自己の心をよく護れ。 この法と律とに精励して住する者は、生の流転を捨てて、苦の終わりを作すであろう。」 * 四神足(しじんそく)・・・四種類の神通力の修行 一劫(いちごう)・・・非常に長い時間の単位(一辺4000mの立方体に小さな芥子の実が一杯詰まっているとして、三年ごとに一粒を取り去るとすると、いつかはこの芥子の実が尽きる時がきます。それに要するる時間を『一劫(いちごう)』と表します。) ◆ アーナンダ廟での説法 仏陀は早朝内衣を着け、衣と鉢を持ってヴェーサーリー市に托鉢のために入りました。 鉢とは食鉢のことで、鉢を持って市中を回られると、信者がそれに食べ物を入れてくれるのです。 仏陀はヴェーサーリー市で托鉢を終え、その托鉢で得られた食べ物で食事をされました。 食事をすませてから、*象が眺めるようにヴェーサーリー市を眺められ、そして阿難に言われました。 「阿難よ、これが如来の最後のヴェーサーリーの眺めとなるであろう。 いざ阿難よ、パンダ村に行こう。」 このときは雨期も終わり、阿難の他にも沢山の弟子達が随従していました。 パンダ村でも仏陀はそれらの弟子達に数々の法話をされ、特に多くの教えを「戒・定・慧」の三学に纏めて話されました。 教えのうちの若干のものは「戒」の教え『戒学』、若干のものは「定」の教え『定学』、更に若干のものは「慧」の教え『慧学』というように、多数の教理を三学に配当し、整理して、説法されました。 これは師亡き後に、弟子達が教法を誤りなく億持することができるようにと配慮してなされたこtであります。 パンダ村に随意の間止住されてから、仏陀はハッティ村に行かれました。 それからアンバ村へ行かれ、そしてジャンブ村、更にボーガ城に行かれました。 以上のように、ヴェーサーリーからボーガ城まではかなりの距離があります。 ゆえに、この期間を旅行するのに一ヶ月以上を費やされたことでしょうし、更に仏陀が、雨安居の時に「寿命を支える力」を捨てられてから、安居が終わるまでにも一ヶ月以上かかっているでしょう。 ゆえに、仏陀がボーガ城に着かれた時には、三ヶ月の期間は残り僅かになっていたのです。 ボーガ城では、仏陀はアーナンダ廟に止住されました。 このアーナンダ廟では、仏陀は弟子達に四大教法を説かれました。 四大教法とは、仏陀亡き後、弟子達の拠り所となる教えで、これを四つに分けて示されました。 第一は、仏陀が般涅槃された後、一人の修行者が「私はお釈迦様から直接聞いた。これが法であり、これが律である。これが師の教えである。」と、このように言ったとしても、無条件で信じてはならない。 その修行者の言ったことを経典の中で調べてみて、更に律典の中に調べてみて、その言葉が経典か律典のどこかに見出されるならば、それは確かに仏陀の言葉である。 ゆえにそれを「仏陀の言葉」として受け入れてよろしい。 第二は、「教団から聞いた」と言う場合。 第三は「多くの長者から聞いた」と言う場合。 第四は、「ひとりの長者から聞いた」という場合。 いずれも、それらの者の言う言葉が、経典や律典の中に見出す事ができれば、それは仏陀の言葉として受け入れてよろしい、と言う教えです。 これは、仏陀の真実の教えであるか否かの判定の基準を、経典や律典におくことを意味しています。 言いかえれば、仏陀亡き後は、仏陀に代わって弟子達を指導するものは「経典」と「律典」であることを、ここに明言されたわけなのです。 |
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* 象が眺めるように・・・体全体の向きを変えて後ろを振り返る様子。 廟・・・廟は原語では「チャイトヤ」と言い、神様の小さな祠を指しています。 インドでは昔から大樹の根元に神様の祠をつくり、神様を祀り礼拝する習慣がありました。 よって、このアーナンダ廟での止住も、祠のある大きな大樹の林のことであると考えられます。 ◆ チュンダの施食 仏陀はボーガ城に心ゆくまで留まった後、パーヴァーに行き、鍛冶工チュンダのマンゴー林に止住されました。 ここで仏陀は、鍛冶工チュンダの供養した食事を受けられて重い病に罹り、死の床につかれる事になるのです。 チュンダは仏陀と修行僧の教団が、自分のマンゴー林に止住しておられる事を聞き、早速訪ねてゆきました。 そして尊い師に近づいて、師に敬礼して、一方に座しました。 仏陀はチュンダに法話を説かれ、法話によって、教え、さとし、鼓舞し、喜ばせました。 チュンダは尊い師の法話によって、教えられ、さとされ、鼓舞され、喜ばされて、尊い師に申し上げました。 「尊い師よ、師は明朝、修行僧たちとともに、私の家で食事の供養を受けてください。」 尊い師は沈黙をもって、この申し出をお受けになりました。 鍛冶工チュンダは、夜も明けないうちから美味しい柔らかい食べ物、かたい食べ物を料理し、さらにたくさんの茸の料理を用意して、仏陀に食事の用意ができた事を告げました。 そこで仏陀は修行者達とともにチュンダの住居に行き、用意された座席に座してチュンダに言われました。 「チュンダよ、汝の用意した茸は、私に供養しなさい。そして残りの柔らかい食べ物、かたい食べ物を修行僧達に供養しなさい。」 チュンダは仏陀の指示に従って、茸の料理を仏陀に供え、他の料理を修行僧達に差し上げました。 その時、仏陀は更にチュンダにこう言われました。 「チュンダよ、残った茸はすべて穴に埋めなさい。この茸を消化できる人は、如来以外に、天人の世界にも人間の世界にもいない。」 そこでチュンダは仏陀の言われるとおりに、残った茸をすべて穴に埋めました。 その後で、チュンダは尊い師に近づき、敬礼し、一方に座しました。 座したチュンダに対して、仏陀は法話をし、法話によってチュンダを教え、さとし、鼓舞し、喜ばしめました。 そして、座より立って去りました。 このときチュンダが供養した『茸』は、原語では「スーカラ・マッダヴァ』とありまして、漢訳では「栴檀樹耳(せんだんじゅに)』と訳しています。 しかし「スーカラ・マッダヴァ」は、柔らかい豚の干し肉だと言う解釈もあります。 ともかく、仏陀はチュンダの差し上げたスーカラ・マッダヴァを召し上がって、食あたり(血が出たと言いますから、赤痢だと思われます。)になられたのです。 チュンダの食を召された尊き師に、重い病が起こり、赤い血がほとばしり出て、死に近い激しい苦痛が起こりましたが、仏陀は正しい思惟によって、苦しみにとらわれないで、苦しみを克服して住しておられました。 そのとき、仏陀は阿難に言われました。 「さぁ阿難よ、クシナーラへ行こう。」 「かしこまりました。」と阿難は答えました。 このように私は聞いた。 鍛冶工チュンダの食を召して、慧者は死に至る激しい病にかかられた。 茸を召されて、激しい病が師に起こった。 下痢をしながら、尊い師は言われた。 私はクシナーラへ行こう、と。 以上は詩になっていまして、古い言い伝えであることを示しています。 こういう金言が、長文の涅槃経をつくられる材料となったのです。 この詩の中にも、仏陀が鍛冶工チュンダの捧げた茸(スーカラ・マッダヴァ)を食べられて、激しい病気になられた事が示されています。 ◆ クシナガラへ 仏陀は激しい病気にかかりながらも、クシナガラへの道を歩んでゆかれました。 「クシナガラ」はサンスクリット語ですが、パーリー語では「クシナーラ」とも表されています。 しかし正しくは「クシナガリー」であると言われています。 仏陀の時代、クシナガラは大きな市であったと考えられますが、現在は「カシヤー」と呼ばれる小さな町で、インドの北辺にいちしています。 そして、仏陀の般涅槃を記念して涅槃堂が建てられていて、その中に涅槃象が安置されています。 涅槃象とは、仏陀が涅槃に入られるとき、頭を北に向けて、顔は西を向かれ、右脇を下にして寝られたので、この寝姿を像にしたものです。 しかしここではまだクシナガラに到着される前でして、仏陀は病をおして、パーヴァーからクシナガラへの道を歩いておられました。 やがてお疲れになったので、一樹の下で休まれることになりました。 そして阿難に言われました。 「阿難よ、私のために上衣を四重にして敷きなさい。私は着かれた。私は座ろう。」 ここで言う上衣とは「僧伽梨衣(そうぎゃりえ)」の事で、二重になっていている二メートル四方くらいの大きな布の事です。 これを体に巻き付けて、袈裟として着るのです。 仏陀は阿難に、僧伽梨衣を地に敷くように命ぜられたのです。 阿難はこれを四重にして敷いたのですが、十文字のように四重にしたのではなく、二つに折って、それを同じ折り方でもう一度折って四重にしました。 ゆえに細長い短冊形になって、これをベッド代わりにします。 長さが二メートル(幅は五十センチになる)もあるので、端をくるくる巻けば枕にもなります。 このようにできた床に仏陀は座して、阿難にこう言われました。 「水が飲みたいから、水を持ってきなさい。」 しかし近くの小川は、丁度五百もの車が通りすぎた後だったので、車輪にかき乱されて水が濁っていました。 そこで阿難は「もう少し行くとカクッター河があります。そこは水が澄んでいて快く、冷ややかで清らかです。水量も豊富です。 ゆえに仏陀はそこで水を飲まれ、体をお冷やしになって下さい。」と申し上げました。 しかし仏陀は「私は水が飲みたいのだ、口が渇いた。水を持って来なさい。」と再度言われました。 それを聞いて阿難は再度「水が濁っていますから、カクッター河まで辛抱なさいませ。」と申し上げました。 しかし三度、仏陀は「水を持って来るように。」と言われたので、阿難は「かしこまりました。」と言って、鉢を持って小川に行きました。 そしたら不思議な事に、小川の水は綺麗に澄んで流れていました。 阿難は、これは仏陀の神通力によるものであると考え、仏陀の神通力に感嘆しました。 そして鉢に水を汲み、仏陀に差し上げました。 そのとき、マッラー人でプックサと言う商人がおりました。 彼はクシナガラからパーヴァーに向かって大道を歩いていました。 そして一樹の下で休んでおられる仏陀を見ました。 プックサは仏陀が心静かに座っている姿を見て、深く心を打たれました。 そして仏陀の所へ近づいて敬礼し、一方に座しました。 そして、心静かに休んでおられる仏陀を讃嘆する言葉を述べました。 プックサは、当時有名な宗教者であったアーラーラ・カーラーマの弟子でありました。 禅定に入った時のアーラーラ・カーラーマの心静かな姿を深く尊敬していましたが、今、目前に仏陀が心静かに座している姿に深く帰依し、仏と法と僧団とに帰依して信者になりました。 プックサは仏陀に帰依したあと、柔らかい金色に輝く絹を二枚取り寄せ、仏陀と阿難とに一枚づつ差し上げました。 阿難が仏陀にその美しい絹の衣をお着せしました。 しかしその金色に輝く美しい衣も、仏陀の体に着けますと美しい輝きを失って見えました。 阿難はそれを見て仏陀に申し上げました。 「尊い師よ、不思議なことです、滅多にないことです。 尊い師、如来の皮膚の色は、清く麗しく輝いています。この柔らかい金色に輝く衣も、尊い師のお体にお着せすると、その衣は輝きを失って見えます。」 仏陀は申されました。 「阿難よ、そのとおりである。 阿難よ、二度、如来の皮膚の色はきわめて清く、麗しく輝く。 その二度とは、如来が無上の仏陀の悟りを得た夜と、無余依涅槃界に入る夜とである。 この二つの時間に、如来の皮膚の色はきわめて清らかに、美しくなるのである。 阿難よ、今夜の夜の終わる最後に、クシナガラのウパヴァッタナにあるマッラー族の林の沙羅双樹の間で、如来は般涅槃に入るであろう。 さぁ阿難よ、河へ行こう。」 阿難は「かしこまりました。」と仏陀に同意しました。 柔らかい金色に輝く一対の衣を、プックサは持ってきた。 それを身に着けられた師は、金色に輝いた。 そこで仏陀は修行僧の集団とともに、カクッター河へ行きました。 そして水に浸り、水浴をし、水を飲み、対岸に渡ってマンゴーの林へ行きました。 そしてそこにいたチュンダカ長老に、 「さぁチュンダカよ、私の為に上衣を四重に敷きなさい。私は疲れた。私は横臥しょう。」 と言いました。 「かしこまりました。」とチュンダカ長老はお答えして、上衣を四重にして敷きました。 このチュンダカ長老と、先の鍛冶工チュンダと同じ人か別の人かは、ハッキリしませんが、おそらく別人であろうと思われます。 そこで仏陀は獅子臥の臥法で臥せ、右足の上に左足を重ね、再び起きる事を考慮して、正しい思慮と正しい自覚をもって臥していました。 そしてチュンダカ長老は尊い師の前に座しました。 仏陀は水清く、快く、澄んでいるカクッター河にいかれたが、非常に疲れた様子にて、世に比(たぐい)のない如来である教主は、水に浸かられた。 教主は水浴し、水を飲まれ、流れを渡られた。 修行僧の集団に囲まれ、尊敬されつつ。 尊き師である教主は、ここに法を説かれ、偉大なる仙人はマンゴーの林に近づかれ、チュンダと名づける修行僧に言われた。 私が臥すために、衣を四つに折って敷け、と。 かのチュンダは、修行を積んだ方に促されて、速やかに衣を四重に敷いた。 非常に疲れた様子にて、教主は臥したまい、チュンダは、そこに面前に座した。 この時、仏陀は阿難に言いました。 「阿難よ、何びとかが鍛冶工チュンダに、後悔の念を起こさせるかもしれない。『友よ、チュンダよ、如来は汝の差し上げた最後の供養の食べ物をおあがりになって、般涅槃に入られたのであるから、汝には利益はなく、汝には功徳がない。』と言って。 しかし阿難よ、鍛冶工チュンダの後悔の念は、次のように排除されるべきである。 『友よ、如来は汝の差し上げた最後の供養の食べ物をおあがりになって、般涅槃されたのであるから、汝は利益があり、大なる功徳がある。 友よ、チュンダよ。 このことを、私は如来より面前で聞き、面前で受けた。 この二つの供養の食べ物は、等しい功徳があり、等しい果報がある。 他の供養の食べ物よりも優れており、より大なる果報があり、より大なる利益がある。 その二つと言うのは何であるか。 一つは、その供養の食べ物を食した如来が、無上の仏の悟りを得られたときの、その供養の食べ物である。 第二は、その供養の食べ物を食した如来が、無余依涅槃界に入られる時の、その供養の食である。 この二つの供養の食物は、等しい功徳があり、等しい果報がある。 他の供養の食べ物より優れており、より大なる利益がある。 鍛冶工チュンダは寿命を延ばす業を積んだ。 鍛冶工チュンダは容色を増す業を積んだ。 鍛冶工チュンダは安楽に導く業を積んだ。 鍛冶工チュンダは名声を増す業を積んだ。 鍛冶工チュンダは天界に生まれる業を積んだ。 鍛冶工チュンダは王権を得る業を積んだ、と。 阿難よ、このようにして鍛冶工チュンダの後悔の念は排除されるべきである。 そこで仏陀は、その意味を考えられて、次のごとき感興の語を述べました。 与える者には功徳が増す。 心を制御する者には怨みはつもらない。 しかして善人は悪を捨て、むさぼりと怒りと迷妄とを滅して、涅槃せり。 |
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第二章 お釈迦さまの般涅槃 ◆ 沙羅双樹の花の色 パーヴァーもクシナガラもともに、マッラー人の国であります。 ゆえにパーヴァーとクシナガラとは、 それほど離れていたとは思われません。 しかし病に苦しまれ、しかも老年のお釈迦様にとって、その旅行は容易ではなかったでしょう。 お釈迦様がパーヴァーでチュンダの供養を受けられたのは正午前であります。 出家者の食事は、正午以後には許されないからです。 ゆえに正午過ぎにチュンダの家を出発されたのでしょう。 それから病気に苦しみながら、パーヴァーからクシナガラに通じる大道を進んでいかれました。 そしてカクッター河に近い一樹の下でお休みになったのです。 そのとき、阿難に命じて、濁った小川から水を取り寄せて飲まれました。 |
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この一樹の下で休息されていたときに、マッラーの商人プックサが通りかかって、お釈迦様のいとも静かな態度に感じて帰依します。 そして法話をなされ、柔らかい金色に輝く絹の衣をお受けになります。 そのときにはすでに夕暮れに近かったのでしょう。 それからカクッター河を渡り、近くのマンゴー林で休息されます。 ここでチュンダに後悔の念の起こらないようにと説法をされました。 それから再び起き上がって、マンゴーの林を出発されたときには、すでに夜になっていたと考えてよいでしょう。 出家者は午前中に食事をすませて、午後から夜にかけては食事をしませんから、お釈迦様はただ水を飲んだだけで、旅行を続けられたのです。 涅槃経によって、続きを見ますと、次のようになっています。 すなわちカクッター河を渡ったところのマンゴー林で休息されたあとで、お釈迦様は阿難に言われました。 「さあ、阿難よ、ヒランニャヴァティー河の彼岸にあるクシナガラのマッラー人のウパヴァッタナのサーラの林にいこう。」 「かしこまりました、尊い師よ。」と阿難は同意しました。 ここでお釈迦様は、修行僧の集団とともに、ヒランニャヴァッティー河の彼岸にあるクシナガラのウパヴァッタナにいきました。 これで見ますと、カクッター河を渡ってから、少し行ってさらにヒランニャヴァッティー河を渡って、クシナガラのウパヴァッタナの沙羅林に行かれたわけです。 ゆえにその距離はそれほど遠くはなかったでしょうが、お釈迦様達がウパヴァッタナの沙羅林に着かれたときには、すでに夜になっていたとみてよいでしょう。 お釈迦様が、かなり強行軍でここまで来られたのは、途中に大勢の修行僧が野宿をするための適当な林がなかったためでしょうか。 あるいは朝になれば、乞食をして、食物を得なければなりませんから、市街の近くに宿することが、重要なことであったのでしょう。 あるいはクシナガラは都市ですので、人口も多かったでしょうから、入滅なさったあとの葬式のことなどを考慮されたものかとも思います。 あまりに住民の少ない小村ですと、お釈迦様が亡くなられても、お葬式に住民が困るということが考えられます。 ともかくお釈迦様がパーヴァーからクシナガラまで、少なくとも、小川とカクッター河とヒランニャヴァッティー河と、三つの河を越えられたのですから、かなり無理をなさってクシナガラまでお着きになったことがわかります。 ヒランニャヴァッティー河の「ヒランニャ」とは黄金のことでして、「ヴァッティー」とは、所有するという意味です。 ゆえにこれを「金河」などとも訳します。 現在あるヒランニャヴァッティー河は幅数メートルの小さな川ですが、昔は大きな河であったといわれます。 ウパヴァッタナのサーラの林に着いたとき、お釈迦様は阿難にいわれました。 「さあ、阿難よ、汝は私のために、沙羅双樹の間に、頭を北に向けて床を用意しなさい。 私は疲れた。 私は横臥しょう。」 「かしこまりました、尊い師よ。」と阿難は答えて、沙羅双樹の間に、頭を北に向けて床を敷きました。 そこでお釈迦様は、頭を北に向け、顔は西に向けてお休みになりました。 そして右足の上に左足を重ね、獅子臥をなし、思惟を正しく保ち、しっかりした自覚をもって、休んでおられました。 このようにお釈迦様が沙羅双樹の間に横たわられますと、そのとき、ときならざるに沙羅双樹は咲きて、すべての花は満開になりました。 それらは如来を供養するために、如来の体に降りそそぎ、降りそそぎ、散り敷きました。 林が真っ白い花で一杯になったので、これを「鶴林」とか「つるの林」などとも言います。 これは大乗の涅槃経のはじめに、「沙羅の林が白く変じて、白鶴のようであった。」と述べているのに由来します。 このようにお釈迦様の涅槃に際しては、ときならぬのにサーラ双樹が満開になり、お釈迦様を供養するために花が降り注ぐという奇瑞が現れたのですが、奇瑞はそれだけではなく、涅槃経によりますと、次のごとく書かれています。 また天のマンダラ華は虚空から降ってきて、如来を供養するために、如来の体に降りそそぎ、降りかかりました。 また天の楽器も、如来を供養するために、虚空中に鳴り響きました。 天の合唱が、如来を供養するために、虚空に起こりました。 如来を供養するには、まずお花を捧げます。 次にお香、さらに音楽を奏して供養します。 ここには天上から、花や香がお釈迦様の体の上に降りそそぎ、さらに空中に音楽が奏せられ、天人達がお釈迦様を尊敬し、供養したのです。 しかしお釈迦様が阿難に告げていわれるには、このように花や香、音楽などによる供養は真の供養ではない。 お釈迦様の出家の弟子達や在家の信者達が、法に従って正しく実践し、法に付随する事柄を正しく実践し、法に従っておこなう者こそ、如来を敬い、重んじ、尊び、如来を最上の供養によって供養する者である。 阿難よ、このように学ぶべきであると説かれました。 そのときウパヴァーナ長老が、お釈迦様の前に立って、お釈迦様を扇であおいでいました。 しかしお釈迦様はウパヴァーナを去らしめました。 「去れ、修行僧よ、わたしの前に立ってはならない。」 そこで阿難は考えました。 「このウパヴァーナ尊者は、長い間、お釈迦様の持者として、おそばでいろいろな用事をつとめた人である。 それなのにお釈迦様は、臨終に際し、ウパヴァーナを去らしめられた。 お釈迦様がウパヴァーナを去らしめられた理由は何であろうか」と。 そこで阿難はお釈迦様に申し上げました。 「尊い師よ、このウパヴァーナ長老は長い間、尊い師の持者でありました。 師の近くでいろいろの用をつとめました。 それなのに尊い師は、臨終に際して、ウパヴァーナを面前から去らしめられました。 ウパヴァーナを去らしめた理由は何でありましょうか。」 お釈迦様はいわれました。 「阿難よ、十方の世界から神がみたちが、如来に会うために大勢集まってきている。 この沙羅林の周囲十二ヨージャナの間は、大勢力のある神がみたちが体を接しており、毛先を入れるほどの隙間もないほどである。 それほどたくさんの神がみたちが集まっているが、彼らは呟いている。『ああ、われわれは如来にお目にかかるために、遠くからやってきた。めったに如来はこの世に現れない。しかるに今日、今夜の最後更に如来は般涅槃されるであろう。しかるにこの大威力のある修行僧が尊い師の前に立って、さえぎっているので、われわれはこの最後のときにお釈迦様にお目にかかることができない』と。 阿難よ、このように神がみは呟いているのである。」 ウパヴァーナ長老は舎衛城の人で祇園精舎が建立されたときに出家したと言いますから、お釈迦様の最初期からの弟子です。 そして六神通を具え、阿羅漢になっていましたから、大きな徳の力を具えていました。 この力のために神がみはお釈迦様の前に進むことができなかったのです。 *十二ヨージャナ :距離の単位で「由旬(ゆじゅん)」と訳す。1由旬は11キロメートル程。 *最後更(さいごこう) :午前四時頃 ここで阿難はお釈迦様に申し上げました。 「尊い師よ、かって地方にあって雨安居を過ごした修行僧たちは、如来にお目にかかりたいために、安居がすむと、お釈迦様のところへやってきました。 そのために私たちは、心の修行をつんだ修行僧を見ることができましたし、彼らを供養することができました。 しかし尊い師がお亡くなりになったあとには、私たちは、心の修行をつんだ修行僧を見ることはできないでしょうし、供養することもできないでしょう。」 そこでお釈迦様はいわれました。 「阿難よ、信仰心のある善男子を見て、信仰心を深める場所が四つある。 ここにて如来はお生まれになったという処(誕生処)は、信心ある善男子の訪ねるべき処であり、信仰心を深めるべき[第一の]処である。 ここにて如来は無上の悟りをひらかれたという処(成道処)は、信心ある善男子の訪ねるべき処であり、信心を深める[第二の]処である。 ここにて如来は無上の法輪を転ぜられたという処(転法輪処)は、信心ある善男子の訪ねるべき処であり、信心を深める[第三の]処である。 ここにて如来は般涅槃されたという処(般涅槃処]は、信心ある善男子の訪ねるべき処であり、信心を深める[第四の]処である。 実に阿難よ、これらの四つの処は、信心ある善男子の訪ねるべき処であり、信仰心を深めるべき処である。 実に阿難よ、信心のある修行僧や修行尼、さらに在家の信男・信女は、『ここにて如来はお生まれになった、ここにて如来は無上の悟りをひらかれた、ここにて如来ははじめて法輪を転ぜられた、ここにて如来は無余依(むよえ]涅槃界にお入りになった』といって、これらの場所に集まってくるであろう。 これらの四つの聖地を巡礼する人を、『チャイトヤ(廟)の巡礼者』と呼ぶ。 彼らがチャイトヤを巡礼して、清らかな心をもって死ぬならば、死後に善い生処である天界に生まれるであろう。」と述べられた。 次に阿難はお釈迦様に突然以下のような質問をし、お釈迦様が答えられました。 「尊き師よ、私たちは女性に対して、どのように接したらよいでしょうか。」 「阿難よ、見ないようにせよ。」 「尊き師よ、すでに見てしまったら、どうすべきでしょうか。」 「阿難よ、話をするな。」 「尊き師よ、しかし話しかけられたら、どうしたらよいでしょう。」 「阿難よ、そのときは気をつけて接せよ。」 修行僧も修行尼も禁欲生活をしていました。 阿難はまだ悟りを得ていませんでしたから、愛欲の束縛から脱していませんでした。 有名な「摩登伽(まとうが)経」によりますと、チャンダ^−ラ種族の娘が阿難に深く恋慕して、愛欲のために死なんばかりになりました。 そこで母親は娘の切なる願いにより、呪法を修し、その呪力によって、阿難を自己の家に引き寄せようとしました。 阿難は母親の呪法の力に抗しきれず、一歩、一歩その家に引き寄せられていきました。 お釈迦様は上天眼(じょうてんげん)によって、阿難の危急をご覧になって、仏の威神力によって、母親の呪法の力を打ち破ったので、阿難は無事に祇園精舎に帰ることができたという話があります。 今まで自分を守ってくださったお釈迦様が般涅槃されると、自分は今後どうしたらよいかと思って、心細くなって、以上のような質問をしたのでしょう。 ◆仏舎利の供養 次に阿難は、お釈迦様の葬式について質問します。 「尊い師よ、私たちは如来の舎利(遺骸)を、どのように処理したらよいでしょうか。」 「阿難よ、汝らは如来の舎利の供養にかかずらうな。 いざ、汝らは、真実の目的のために努力せよ。 正しい目的を実行せよ。 真実の目的のために、不放逸に、熱心に、努力せよ。 阿難よ、如来に信心をもつ王族の賢者たちや、バラモンの賢者たち、居士の賢者たちがいて、彼らが如来の供養をするであろう。 お釈迦様は以上のように答えられて、出家の弟子達に、葬式に関係したり、遺骨の礼拝、供養をすることを禁止されたのです。 そして在家信者の中に、信心ある賢い人々がいるから、彼らが如来の遺骸の葬式をするであろうと言っておられるのです。 ゆえにお釈迦様が亡くなられたとき、葬式をしたのは、クシナガラのマッラー人達でありました。 そして遺骸を火葬にしたあと、残った遺骨を集めて、塔を建てたのも、在家信者たちでありました。 このようにお釈迦様は出家の弟子たちには、お釈迦様の遺骸の葬式に関係することを禁止されましたが、しかし在家者がするにしても、葬式の作法を知っておかなければなりません。 その参考のために、阿難はお釈迦様の遺骸の葬法をお尋ねしました。 「しかし尊い師よ、如来の舎利をどのように処理したらよいでしょうか。」 「阿難よ、天輪聖王(てんりんじょうおう)の舎利を処理するように、如来の舎利を処理すべきである。」 と、お釈迦様は返事をされました。 *天輪聖王 : 輪宝を所有する聖王のことで、輪宝が転じることによって国土が平定されると考えられている。 すなわち、武器によらないで国土を平定し、理想的な政治を行う聖王として、インドでは古くからその出現を待望されていた。 「しかして尊い師よ、天輪聖王の舎利はどのように処理すべきですか。」 「阿難よ、天輪聖王の遺骸は、新しい布で包む、その上毛羽だてた綿布で包む。 毛羽だてた綿布で包んだ上を、さらに新しい布で包む。 この方法で五百重に天輪聖王の遺骸を包む。 それからこの遺骸を、油を満たした鉄の棺に入れる。 それを別の鉄の容器で覆い、あらゆる香木の薪でつくった堆積の上に載せて、火葬にするのである。 そして大きな道の四つ辻に塔をつくって祀るのである。 阿難よ、天輪聖王の遺骸はこのように処理するのである。 阿難よ、天輪聖王の遺骸を処理するように、そのように如来の遺骸を処理すべきである。 そして大きな道の四つ辻、如来の塔を建てるべきである。 誰でも、その塔に、花輪や香料、または顔料を供えて、礼拝する者や、あるいは清らかな心で信ずる者は、長い間、利益と安楽とが得られるであろう。 ここに塔を建てることが出てきます。 塔の語源は「ストゥパ」といい、この語はヴェーダなどの古い時代には「頭の髷」を意味する言葉でした。 それが原始仏教の時代になって、お釈迦様の遺骨の上につくった半珠形の墓を示す言葉に用いられたのです。 また、インドでは古くからお墓をつくりません。 現在でもヒンドゥー教はお墓を作りません。 人は死ねば輪廻転生するというのがインド人の信念ですから、お墓をつくって死者の霊魂を祀ることは不可能なわけです。 これに対して、お釈迦様のように、輪廻の生存を終止して、無余依涅槃界に安住している聖者は、塔を建てて祀ることができるのです。 涅槃経では、お釈迦様はこれら四種類の者には、塔が建てることができるといっています。 「阿難よ、これらの四種類の者は、塔を建てて拝まれるべきである。 如来は塔を建てるに価する。独覚(どっかく)は塔を建てるに価する。声聞(しょうもん)は塔を建てるに価する。天輪聖王は塔を建てるに価する。」 *独覚 : 仏陀の導きに依らずに、独力で悟りを開いた者。 *声聞 : お釈迦様の声(教え)を聞いた人。阿羅漢の悟りを得た者。 これらはすべて輪廻の生存から脱出した人々ですから、塔を建てて祀り、礼拝することができます。 さらに、礼拝する人は、心が清まり、その功徳によって、死後に天界に生まれることができると説かれています。 ただし、天輪聖王は在家者ですから、輪廻を終えた人とは言いかねますが、お釈迦様が生まれたとき、占相師が、この子は家にあれば天輪聖王になり、出家すれば、仏陀になると予言しましたので、天輪聖王は仏陀と同格にみられていたものと考えます。 ◆マッラー人の悲しみ このようにお釈迦様が説法をされている間に、阿難はお釈迦様が涅槃に入られるのを悲しんで、辛抱することができず、すすり泣きをしていました。 「お釈迦様が涅槃に入られるのは、何と早いことであろう。 私はまだ修行が完成していない。 まだ修行中である。 それなのに、私を憐れんでくださる教主は、私を捨てて般涅槃されてしまう。」 と言って、嘆き悲しみました。 お釈迦様は「いま、阿難はどこにいる」と問われました。 弟子たちが「阿難は仏さまの後ろににいて、お釈迦さまの般涅槃は、何と早いことであろうといって悲しんでいます。」と申し上げました。 そこでお釈迦さまは阿難にいわれました。 「やめよ、阿難よ、悲しんではならない。 嘆くのをやめよ。 阿難よ、かって私は、汝にいわなかったか、『すべて愛するもの、好めるものといえども、生別し、死別し、死後には境界を異にする』と。 阿難よ、すべて生じたもの、存在するもの、つくられたもの、破壊すべき性質のものを、それを破壊しないようにということが、どうしてあり得ようか。そのような道理はあり得ない。 阿難よ、汝は長い間、慈悲のある、利益のある、安楽な、純一な、はかり知れない言葉と行為と心とによって、私に仕えてくれた。 阿難よ、汝は功徳をなした。 努めはげめ。 遠からず煩悩を尽くして、悟りを得るであろう。」 といって、阿難をなぐさめました。 そしてさらに修行僧たちにいわれました。 「修行僧たちよ、阿難は賢者である。 これは、如来にお目にかかるために、修行僧たちのまいるべきときである、これは如来にお目にかかるために、修行尼たちのまいるべきときである。これは、如来にお目にかかるために、在家信者たちのまいるべきときである。 これは、如来にお目にかかるために、在家信女たちのまいるべきときである。 これは国王、王の大臣、異教徒の師、その弟子たちのまいるべきときであるということを、よく知っている。 修行僧たちよ、また阿難には四つの不思議にして、珍しい能力がある。 その四つというのは何であるか。 もし修行僧たちの集団が阿難に会おうと思って近づいていくならば、会っただけで、彼らは喜びを感ずる。 もし阿難が説法すれば、説法を聞いて喜びを感ずる。 もし修行僧たちが満足すれば、そのとき阿難は沈黙する。 修行尼の集団が阿難に近づくときも、在家者の集団、在家信女の集団が阿難に近づくときも、以上とまったく同じである。 このように阿難には、この四つの不思議な、珍しい能力がある。」 このようにお釈迦さまは、阿難のすぐれた能力を賞賛されました。 このとき阿難はお釈迦さまに申し上げました。 「尊い師よ、尊い師はクシナガラのような小さな都城、竹薮の都市、田舎の都市で般涅槃にお入りになるべきではありません。 他に大きな都城、たとえばチャンパー、王舎城、舎衛城、サーケータ、コーサンビー、バーラーナシーなどがあります。 こういう大きな都城で、尊い師は般涅槃に入られるべきです。 そこには、多くの富裕な王族やバラモン・居士たちの大きな会堂があり、如来に深い信仰をもっています。 彼らは如来の舎利供養をするでしょう。」 「阿難よ、そのようにいってはならない。 阿難よ、クシナガラを小さな都城、竹薮の都市、田舎の都市といってはならない。」と、お釈迦様は阿難の言葉を制止されました。 そして、クシナガラは大昔には、クサーヴァティーという大きな都城であり、富裕で、人民が多く、食料も豊かで、大善見王(だいぜんけんおう)の都城として栄えていたことを話されました。 次にお釈迦様は、阿難に命じて、ご自身が般涅槃されることをクシナガラの住民に知らしめられます。 これは、「お釈迦様が生きておられるうちに、もう一度お目にかかりたかった。」と、人々が後悔しないように配慮されたのであります。 すなわち阿難に告げられて、 「阿難よ、汝は行きなさい。 クシナガラに入って、クシナガラのマッラー族に告げなさい。 『おお、ヴァーセッタたちよ、今夜の最後更に如来の般涅槃はあるでしょう。 ヴァーセッタたちよ、集まってきなさい。 あとになって、われわれの村の土地で、如来は般涅槃された、しかしわれわれは、その最後のときに如来にお目にかかることができなかったと、後悔することがないようにしなさい』と。」 「かしこまりました、尊い師よ。」と阿難はお釈迦様にお答えして、一人をつれてクシナガラに入ってゆきました。 *ヴァーセッタ : マッラー人の姓 *一人をつれて : 修行僧が午後から夜など、町や村に入るときは一人で行ってはならないという規則のため。 丁度そのとき、マッラー人は、町の公会堂に集まって、町の問題を討議しておりました。 そこへ阿難はやってきて、マッラー人に告げました。 「おお、ヴァーセッタたちよ、今夜の最後更に如来の般涅槃はあるでしょう。 ヴァーセッタたちよ、集まってきなさい。 あとになって、われわれの村の土地で、如来は般涅槃された、しかしわれわれは、その最後のときに如来にお目にかかることができなかったと、後悔することがないようにしなさい。」と。 阿難のこの言葉を聞いて、マッラー族の人々、及びその子供や娘、妻たちはすべて身悶えして悲しみ、憂え、心配しました。 彼らは心の悲しみに圧っせられて、ある者は髪を乱して泣き、両腕をのばして泣き、砕かれた岩のように打ち倒れ、身をもだえて大地にころげて、如来が般涅槃されるのは、あまりにも早い。 善逝が般涅槃されるのはあまりにも早い。 世の中の眼がおかくれになるのは、あまりにも早い。 といって悲しみました。 *善逝(ぜんぜい) : 仏の十種の称号のひとつ。 そうしてマッラー族の人々は、妻や子供、娘たちとともに、大きな悲しみに任せられつつ、ウパヴァッタナの沙羅林に出かけてゆきました。 彼らが大勢で近づいてくるのを見て、阿難は考えました。 「もしも私が、クシナガラのマッラー人たちを、一人ずつ尊い師に敬礼させるならば、夜明けになっても全部の人を敬礼させることはできないであろう。 それだから、クシナガラの住民たちを、家族単位にして、一団となして、立ったままで、尊い師に敬礼せしめよう。 『尊い師よ、これこれの名のマッラー人が、妻や子供、親戚、友人たちとともに、尊い師の御足に敬礼します。』といって。」 このようにして、阿難はクシナガラのマッラー人たちを、この方法で夜の明けぬうちに、ことごとくお釈迦様に敬礼させました。 ◆遊行者スバドラ そのときスバドラという遊行者がクシナガラに住んでいました。 そして遊行者スバドラは「今夜の最後更に、お釈迦様が般涅槃されるであろう」と聞きました。 そこで彼は考えました。 「今夜の最後更に、お釈迦様は般涅槃に入られるという。 私はかって、老齢にたっした、師中の師である長老の遊行者たちの語っているのを聞いた。___すなわち、「如来であり、阿羅漢であり、完全に悟った仏陀は、きわめてまれにしかこの世にあらわれない」と。 しかるに私には、いま疑問が生じている。 この私の疑いを解いてくれるような教えを、お釈迦様は説くことができるという確信が、私の心に起こった。」 このような信念が起こったので、スバドラはウヴァッタナのサーラ林に出かけていきました。 そして阿難尊者のところへ行って言いました。 「私はかって、老齢にたっした、師中の師である長老の遊行者たちの語っているのを聞きました。 すなわち、「如来であり、阿羅漢であり、完全に悟った仏陀は、きわめてまれにしかこの世にあらわれない」と。 しかるに、今夜の最後更に、お釈迦様は般涅槃されるということです。 しかるに私に、いま疑問が起こりました。 この私の疑問を解いてくれるような教えを、お釈迦様はきっと話してくださると思います。 どうか私をお釈迦様に会わせてください。」 このようにスバドラがいいましたときに、阿難は遊行者のスバドラにいいました。 「おやめなさい、スバドラさん。尊い師を悩ませてはいけません。お釈迦様は疲れています。」 遊行者スバドラは、二度、三度、同じことを述べて、阿難に頼みました。 「阿難さん、私はかって、老齢の遊行者たちが語っているのを聞きました。 すなわち『如来であり、阿羅漢であり、完全な悟りをひらいた仏陀は、きわめてまれにしかこの世に現れることがない』と。 しかるに今夜の最後更に、お釈迦様は般涅槃されるということです。 しかるに私に、いま疑問が起こっています。 この私の疑問を解いてくれるような教えを、お釈迦様はきっと私の話してくださるでしょう。 そういう確信が私に起こりました。 どうか私を、お釈迦様に会わせてください。」 スバドラが三度目にいいましたとき、阿難は三度答えました。 「やめてください、スバドラさん。尊い師を悩まさないでください。お釈迦様はいま疲れています。」 お釈迦様は、阿難とスバドラとの間にかわされた会話をおききになりました。 そして阿難尊者にいわれました。 「やめよ、阿難よ、スバドラをさえぎってはならない。 阿難よ、スバドラに如来を見ることを許しなさい。 スバドラが質問することは何でも、それを知りたいと思って質問するのである。 私を悩まそうと思って質問するのではない。 彼が私に質問することは何でも、私は説明してやるであろうし、彼はそれを速やかに理解することができる。」 そこで阿難は、遊行者スバドラにいいました。 「おいきなさい、スバドラさん。 尊い師はあなたに許可を与えられました。」 そこで遊行者スバドラは、お釈迦様のところへ近づきました。 近づいてお釈迦様に挨拶し、互いに尊敬すべき、喜ばしめる言葉を交わして、一方に座しました。 一方に座してスバドラは、お釈迦様に次のように尋ねました。 「尊敬すべきゴータマよ、世間の宗教者で、教団を所有している人や、集団の師と仰がれる人、あるいは宗派の開祖として多数の人に尊敬されている人があります。 たとえば*プーラナ・カッサパ、 マッカリ・ゴーサラ、 アジタ・ケーサカンバリン、 パクダ・カッチャーヤナ、 サンジャャ・ベーラッティプッタ、 ニガンタ・ナータプッタなどです。 彼らはすべて、自分の智によって知ったのですか。 あるいは彼らはすべて、知っていないのですか。 あるいはその中のある者は知っており、ある者は知っていないのですか。」 * 尊敬すべきゴータマよ : このように呼びかけたのは、スバドラが異教徒であって、お釈迦様と対等の立場だから。 このように問いました。 *プーラナ・カッサパ・・・ : ここに挙げられた六人は「六師外道」と呼ばれる宗教家。 「沙門果経(しゃもんかきょう)」には、彼らの説いていた教理も示されています。 まさに涅槃に入ろうとしているお釈迦様には、時間がありません。 それにスバドラが問いかけているのは、スバドラ自身のことではなく、六人の宗教家が実際に知っているのか、知らないのかと言う質問は、この際どうでもよいことです。 六師が真実の知見を持っているとして、いまのスバドラの知見が増すわけではありません。 逆に六師は虚名を得ているだけで、真実の知見はないと、お釈迦様が答えたとしても、それでスバドラに真実の知見が生ずるわけではありません。 時間を持たないお釈迦様に、スバドラが見当違いの質問をしたために、お釈迦様は答えました。 「やめなさい、スバドラよ。『 彼らはすべて、自分の智によって知っているのか、あるいは彼らはすべて知っていないのか、あるいはその中のある者は知っており、ある者は知っていないのか』という問題は捨てなさい。 スバドラよ、私はあなたに法を説きましょう。 それをおききなさい。よく注意してききなさい。 いまから説くでしょう。」 「かしこまりました、尊い師よ。」 とスバドラはお釈迦様に同意しました。 そこでお釈迦様は次のように説かれました。 「スバドラよ、世間に多くの宗教家が教えを説いているが、もし彼らの説く教理や戒律の中に、聖なる八正道の教えが認められないならば、そこには第一段階の悟りを得た修行者(預流果:よるか)は認められないし、第二段階の悟りを得た修行者(一来果:いちらいか)、第三段階の悟りを得た修行者(不還果:ふげんか)、第四段階の悟りを得た修行者(阿羅漢果も見いだされない。 しかしてスバドラよ、その説く教理や戒律の中に、聖なる八正道の教えが見いだされるならば、その教えには第一段階の悟りを得た修行者も認められるし、第二段階の悟りを得た修行者、第三段階の悟りを得た修行者、第四段階の悟りを得た修行者も見いだされる。 すなわち聖なる八正道を説く教えによって修行すれば、その修行は空しくないのであり、その修行に応じて、真実の悟りの果報が得られるのである。 しかるにスバドラよ、私の説く教理と戒律とには、聖なる八正道が見いだされる。 ゆえにこの教理と戒律とによって修行する者には、第一段階の悟りを得た修行者も認められるし、第二段階の悟りを得た修行者、第三段階の悟りを得た修行者、第四段階の悟りを得た修行者も見いだされるのである。 他の宗教者の説く論議は、修行者にとっては空虚である。 もし修行僧がこの教えに正しく住するならば、真実の悟りを得た人びと(阿羅漢)が輩出し、彼らによって、この世は空しくないであろう。 スバドラよ、私は2齢29歳にして、善とは何かを求めて出家した。 スバドラよ、私が出家してから50年余となった。 正理と正法の地を歩んできた。 これより以外に、真実の修行者は存在しない。」 お釈迦様の説法を聞いて、スバドラは心から心服し、次のように申し上げました。 「尊い師よ、すばらしいことです。 尊い師よ、実にすばらしいことです。 たとえば倒れたものを起こすがごとく、覆われたものを露(あら)わすがごとく、、迷ったものに道を示すがごとく、あるいは眼のある人はいろいろの色を見るであろうと、暗夜に灯火をかかげるがごとくに、このように尊い師は、種々の方法によって法をあきらかにされました。 私は、尊い師(仏)に帰依します。 そして完全な修行僧になる戒律を得たいと思います。」 お釈迦様は言われました。 「スバドラよ、かって異教徒であった者が、仏教の戒律で出家し、修行僧になろうとする場合には、四ヶ月間の試験期間がある。 四ヶ月の試験期間を経過して、修行僧の教団が許可するならば、仏教の修行僧となることが許される。 しかしこの場合は、人によって相違のあることを、私は認める。」 といわれました。 スバドラは申し上げました。 「尊い師よ、もしかってかって異教徒であった者が、仏教の戒律で出家し、修行僧になろうとする場合には、四ヶ月の試験期間があるのでしたら、私は四ヶ月ではなしに四年間、試験期間を過ごすでしょう。 四年間の試験期間のあとで、修行僧の教団の許可がありましたら、どうか私に仏教の修行僧になる許可を与えてください。」 そこでお釈迦様は阿難にいわれました。 「それでは阿難よ、この遊行者スバドラを出家せしめなさい。」 阿難は「かしこまりました。」と答えて、スバドラを出家させました。 スバドラは尊い師のもとで出家することができ、修行僧としての戒律を具えることができました。 修行僧としての戒律を具えたあとで、スバドラは他から離れて、独りで修行し、怠らず、熱心に、精進努力して、修行に励んだので、立派な男子が出家の目的とする無上の悟りを、現世において自ら実証し、実現しました。 そして、「私の生存は尽きた。清らかな修行は完成した。なすべきことはすべてなされた。再びこの世の状態に戻ることはない。」と悟りました。 かの尊者スバドラは、さらに一人の阿羅漢になった。 彼は尊い師の最後の直弟子となった。 ◆四つの遺言 以上のようにして、スバドラはお釈迦様の最後の弟子になったのでした。 『遺教経には』には、 釈迦牟田尼仏は、初めて法輪を転じて阿若僑陣如(あにゃきょうじんにょ)を度したまい、最後に法を説いて須跋陀羅(スバダラ)を度したもう。 まさに度すべき者は皆すでに度し終わりて、沙羅双樹の間においてまさに涅槃に入らんとす。 是のとき、中夜にして声なし。 と述べております。 *度したまい : 「度」と言うのは「渡る」と言う意味で、迷いの岸から悟りの彼岸に渡る事を言う。 *中夜 : 夜中の十二時を中心とする、前後の四時間を指す。 午後十時頃から午前二時頃の間のこと。 この寂然として声なきとき、お釈迦様は阿難尊者にいわれました。 「阿難よ、あるいは汝らにこのような考えがあるのかもしれない、「師の言葉は終わった。我らの師主はもはやおられない。」と。 阿難よ、そのように考えてはならない。 阿難よ、私によって説かれ、示された教法と戒律とが、私亡きあとの汝らの師である。 また阿難よ、現在、修行僧たちは、互いに「友よ」という言葉で呼び交わしているが、私が亡くなったあとは、そのように呼びかけてはならない。 目上の修行僧は、若い修行僧を、その名や性で呼んでもよろしいし、「友よ」と呼びかけてもよい。 しかし若い修行僧は長上の修行僧を「尊者よ」とか「長老よ」という言葉で、呼びかけるべきである。 さらに阿難よ、私が亡きあとには、もし修行僧の教団が希望するならば、小小戒(しょうしょうかい)は廃止してもよろしい。 次に阿難よ、私が亡きあとに、修行僧チャンナに梵壇罰(ぼんだんばつ)を加えなさい。 「尊い師よ、梵壇罰とは、どういうものですか。」 「阿難よ、修行僧チャンナは、欲するならば、他の修行僧に話しかけることができる。 しかし他の修行僧たちは、彼に答えてはならない。 話しかけてもいけない。 チャンナに忠告や訓戒をしてはいけない。 これが梵壇罰である。」 お釈迦様は臨終に際して、以上四つのことを遺言されました。 第一は、お釈迦様が涅槃に入られても、それでお釈迦様の活動が終わるわけではない。 そのあとにはお釈迦様が説き残した教法と戒律(法と戒)とが、私に代わって汝らの師であるといわれたのです。 すなわち今後は、法と律とを師として修行をなせといわれたのです。 遺言の第二は、長幼の序、上下の秩序を示されたことです。 お釈迦様が生きておられる間は、弟子たちは「釈迦の弟子」という点で同じですが、お釈迦様が亡くなられると、弟子たちだけになりますから、そこに上下の順序があらわになります。 その際、先に出家した者が先輩でして、一日でも出家が遅ければ後輩になります。 生まれた年の順序ではなしに、修行僧になる戒律を受けた日時が、先輩・後輩を区別する基準になります。 深い悟りを得た者や、学問のある人などは、それなりに尊敬されますが、しかし教団における長幼の順序は、出家をした日時で決まるのでして、後輩は先輩に対して、無条件の尊敬を捧げるのです。 第三は、修行僧が望むならば、小小戒は捨(しゃ)してもよいということです。 修行僧には二百五十戒というほどに沢山の戒律があります。 その中でも殺人・性交・盗み・悟りに関する妄語の四条は、波羅夷罪(はらいざい)といいまして、もっとも重い罪で、教団から追放されます。 その次に僧残(そうざん)といいまして、教団で裁判をしまして、罰を与える規則が十三条あります。 お釈迦様が亡くなるときに、この二百五十条が全部成立していたかどうかは疑問ですが、ともかくここには小小戒は廃止してもよいと遺言されたのです。 第四のチャンナ比丘に梵檀罰を与えることは、第一結集の終わったあとで、大迦葉(だいかしょう)の命により、阿難がチャンナに伝えました。 チャンナは、お釈迦様が王宮から出城し、出家するときの従僕であったことを自慢して、他を軽蔑し、粗暴の行為がありました。 それで彼を折伏するために、お釈迦様はこの遺言をなさったのです。 チャンナはそのとき、中インドの西のはしのコーサンビーにおりましたが、阿難から梵檀罰のことを聞いて、悲しみと驚きで失神したといいます。 そしてすっかり改心して、熱心に修行しましたので、阿羅漢のひとりになったということです。 勿論、阿羅漢になったとき、梵檀罰は自動的に解除になりました。 ◆涅槃に入る お釈迦様は上述べの遺言をなさったあとで、さらに弟子たちに告げられました。 「修行僧たちよ、汝らの中には、仏陀に関し、教団に関し、あるいは悟りに関し、そしてまた修行の方法に関して、疑問や迷いがあるかもしれない。 そういう人は問いなさい。 あとになってから、「あのとき、私は師に面と向かってお目にかかっていた。 それなのに私は師に質問することはできなかった」といって、後悔することがあってはならない。」 このようにいわれたとき、修行僧たちは黙然として住していました。 お釈迦様は再度、修行僧たちに告げられました。 しかし修行僧たちは、同じく沈黙していました。 そこでお釈迦様は三度告げられました。 「修行僧たちよ、汝らの中には、仏陀に関し、教団に関し、あるいは悟りに関し、そしてまた修行の方法に関して、疑問や迷いがあるかもしれない。 そういう人は問いなさい。 あとになってから、「あのとき、私は師に面と向かってお目にかかっていた。 それなのに私は師に質問することはできなかった」といって、後悔することがあってはならない。」と、このようにいわれましたが、修行僧たちは同じく沈黙していました。 そこでお釈迦様はさらにいわれました。 「修行僧たちよ、汝等らは如来を尊崇するあまり、遠慮して質問しないことがあるかもしれない。 もっと気楽に、友だちが友だちに尋ねるような気持で質問しなさい。」といわれました。 しかし修行僧たちは沈黙していました。 お釈迦様は、いよいよ般涅槃されるという直前にも、弟子たちのことを思われて、極度の疲労にありながらも、三度までも繰り返して、弟子たちに「疑問はないか」と問われたのであります。 さらにそれでも終わらず、もう一度「友だちが友だちに問うように気楽に問え」と、どんな小さな疑問でも残さないようにと願われたのです。 お釈迦様がこのようにいわれても、修行僧たちが沈黙していたので、阿難はお釈迦様に申し上げました。 「尊い師よ、不思議なことです。 得難いことです。 私は、修行僧たちが、仏陀に関し、法に関し、教団に関し、あるいは悟りに関し、修行の方法に関し、一人の修行僧すらも、疑いがなく、迷いがないことを、清らかな心で信じます。」 お釈迦様はいわれました。 「阿難よ、汝は(事実をつきとめないで)信念によってそのようにいう。しかし如来はこの点について、『この修行僧たちには、仏陀に関し、法に関し、教団に関し、あるいは悟りに関し、修行の方法に関して、一人の修行僧にも、疑いもなく迷いもない」と正しい知恵によって知っている。 ここにいる五百人の修行僧のうち、最下の修行僧ですらも、修行の初期段階である預流果(よるか)の悟りに達している。 それゆえ、再び仏教の修行から離れることがないように決定(けつじょう)している。 そして彼らは最後には必ず正しい悟りに達するのである。」 そしてさらにお釈迦様はいわれました。 「いざ、修行僧たちよ、汝らに告げよう。 もろもろの存在は変化する性質のものである。 諸行は無常である。 怠らず修行せよ。」 これがお釈迦様の最後の言葉でした。 それからお釈迦様は瞑想に入られました。 最初に初禅の禅定に入られました。 それから初禅から起って二禅に入られました。 二禅より起って三禅に入られ、さらに三禅より起って四禅に入られました。 ここに初禅・二禅・三禅・四禅とあるのは、瞑想の深まりを示しています。 禅とはジャーナの音訳で禅那(ぜんな)ともいいます。 意味は「静慮:じょうりょ」といいまして、心を静めることです。 初禅から四禅までは、心が瞑想に入っても、肉体の感受が残っている段階でありまして、心と感覚とが一つになっている「瞑想(禅定)」の状態です。 このうち四禅は最も深い禅定です。 しかしお釈迦様は四禅から起たれて空無辺処定(くうむへんしょじょう)に入られました。 次に空無辺処定より起たれて、識無辺処定(しきむへんしょじょう)に入られました。 識無辺処定かた起たれて、無所有処定「むしょゆうしょじょう)に入られました。 さらに無所有処定から起たれて、非想非非想定(ひそうひひそうじょう)に入られました。 さらに非想非非想定から起たれて、滅想受定(めつそうじゅじょう)に入られました。 * 空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想定 : 感覚を捨象した瞑想の世界 空無辺処定・・・空間の無辺を体験する瞑想。 識無辺処定・・・識(心)の無辺を体験する瞑想。 無所有処定・・・無を体験する瞑想。 非想非非想定・・・限りなく想を滅する体験する瞑想。 * 滅想受定・・・想と受が滅してしまった瞑想であり、死と紙一重の瞑想の世界(滅尽定:めつじんじょう)。 お釈迦様が滅想受定に入られたとき、阿難は、お釈迦様は涅槃に入られたと思いました。 そこで阿那律(あなりつ)に、 「阿那律よ、お釈迦様は般涅槃された。」といいました。 阿那律は「友よ、阿難よ、お釈迦様は滅想受定に入っておられるのである。般涅槃されたのではない。」といいました。 阿難はこのとき、まだ阿羅漢の悟りを得ていなかったので、滅想受定と般涅槃との区別ができなかったのです。 お釈迦様は滅想受定に入られたあと、それから逆に初禅の方向にでてこられました。 滅想受定より非想非非想定へ、さらに無所有処定へ、さらに識無辺処定・空無辺処定・四禅・三禅・二禅に入られ、ついで三禅に入られ、四禅に入られて、ここで般涅槃されたといわれています。 ここでお釈迦様の八十年の生涯は終わったのであります。 お釈迦様が般涅槃に入られたとき、大きな地震が起こりました。 人々は恐怖し、身の毛がよだち、また天の太鼓(雷鳴)が鳴りわたりました。 大般涅槃経はまだ続いておりますが、取りあえずここで終わらせて頂きます。 〜管理人〜 |
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